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桜・騰越の戦い

敵兵力は、米空軍、英国空挺隊を含むChina国民党軍総勢49600人。
迎え撃つ味方は、わずか2025名。
しかも本来なら守備に7000名が必要とされる城砦でありながら、他に兵力を割かれ、残るわずかな人数で、城を2か月以上にわたって守り抜き、全員が玉砕した事件。
これが、有名な騰越(とうえつ)の戦いです。
先日ご紹介した拉孟(らもう)の戦いもそうなのですが、騰越(とうえつ)の戦いも、地上戦です。
玉砕戦が行われたのは、ほとんどが太平洋上の小さな島だったのですが、これらは、制海権、制空権を完全にアメリカ軍に握られた状態で、日本軍が援軍派遣ができなかったこと、加えて、島の守備隊は、海で隔てられていた島で、退くことも逃げることもできず、玉砕した、というのはある程度わかる話かとも思います。
ところが、拉孟(らもう)、騰越(とうえつ)の戦いは、ビルマ北部のChina雲南省で行われた大陸での陸上戦です。
そこで、全員が死ぬまで戦って玉砕した。
なぜ、拉孟(らもう)や騰越(とうえつ)に日本軍がいたか。
当時、Chinaは、いわゆる今のソマリアと同じ無政府状態。
その無政府状態のChina各地に軍閥や匪賊が跋扈し、住民に対して乱暴狼藉を働いていた。
China軍閥の中でも、もっとも勢力の大きかったのが、蒋介石率いる国民党です。
そして英米は、日本に対する経済封鎖を行う一方で、China国民党に援助物資を与えていた。
援助物資は、食料、武器、弾薬、兵器に加え、軍事訓練まで与え、しかも航空機による軍事支援活動まで行っていたのです。
その援蒋ルートを断ちきるためには、日本はビルマ北部に軍を進めるしかなかった。
このことについて、あるサイトで、次のような記述がありました。
「中国への援助の中心となっていたのはアメリカとイギリスだったから、その非難の声はこの二カ国に集中した。アメリカやイギリスが中国への援助をやめさえすれば、蒋介石政府はすぐにでも日本に降伏するだろうに、あいつ等のお陰で日本は中国にたいする戦争をやめることができない、チクショウ!という感情がうずまいていたのだ。やがてそれは鬼畜米英というスローガンにまでなってしまった。
アメリカは中国を援助しつつ、一方では日本への経済制裁(貿易の制限)を徐々に強め、ついに石油の輸出を全面ストップした(一九四一年八月)。日本はそのころ、石油の八割前後をアメリカから輸入していたのだから、ひとたまりもなかった。しかし、事態がそこまできても中国への侵略戦争をやめることができなかった。
こうしてアメリカもイギリスもやっつける、中国への侵略戦争にも勝つ、この二つの目的のもとに、アメリカとイギリスとの戦争に踏み切ったのだ。それが大東亜戦争だ。」
この文章は、虚実織り交ぜて、過去の日本を故意に貶めようとしている文章です。
まず、「アメリカやイギリスが中国への援助をやめさえすれば、蒋介石政府はすぐにでも日本に降伏する」ということを、まるで夢物語であるかのような記述になっていますが、これは夢物語ではありません。事実です。
実際、大東亜戦争が終結したために、米英は、蒋介石に対する軍事援助を止めた。
するとその一方で、ソ連が、旧日本軍から奪った装備を、毛沢東率いる中国共産党にまるごと下げ渡すようになりました。
それまで中国共産党というのは、せいぜいゲリラ活動をするくらいで、あちこちひっかきまわしはしても、まるで戦闘らしい戦闘はしていません。なにせ武器がないのです。国内を逃げ回るしかなかった弱小軍閥でしかなかった。
それが、補給が逆転・・・つまり蒋介石国民党に補給がなくなり、毛沢東共産党に補給が生まれた瞬間から、あっという間に形勢は逆転。
わずかの間に、蒋介石率いる国民党は、China大陸から追い出されてしまった。
毛沢東率いる中国共産党ですら、これです。
正規の日本軍が、補給のない蒋介石軍と戦ったのなら、China事変など、瞬く間にカタがついていた。
もし、米英の蒋介石への援助・補給がなければ、おそらく日本は、あっという間にChinaに平和と安定を遅くとも昭和12年くらいまでにはもたらしていたでしょうし、昭和20頃には、China大陸に住む多くの庶民は、同国人による略奪や虐殺、強制収容などされることなく、平和と庶民の安全の図られる幸福な民主国家の建設ができています。
その蒋介石率いる国民党が、日本に追われてChinaの奥地、ビルマに近い雲南省まで追い詰められたとき、米英が、彼らに豊富な物資を送りこんだ。
送り込んだ道筋が、援蒋ルート(蒋介石政府を援助するルート)です。
すなわちイギリスやアメリカの援助物資を雲南省経由で中国に送りこむビルマ公路です。
日本は、China国民党を追いかけてビルマを北上します。
China国民党は、雲南省サルウィン河にかかる吊り橋「恵通橋」を爆破して、逃げます。
これが昭和17(1942)年5月のことで、以降、陸上の蒋援ルートは、一時中断します。
つまりChina国民党は、自らの手で、援蒋ルートのひとつ、ビルマ公路を破壊したわけです。
ビルマ公路は、地上輸送路です。
重火器等は、このルートの確保が柱となる。
蒋介石は、翌昭和18(1943)年秋から、本格的なビルマ公路奪還のための軍事行動を起こします。
これに対し日本は、恵通橋を見下ろすことのできる地点に守備隊を置きました。これが拉孟(らもう)守備隊です。
そして今日、お話する騰越(とうえつ)は、援蒋ビルマルートからすこし離れた高黍貢山系を越えた北西約50kmにある、城砦都市での攻防線です。
どちらもChina国民党が、ビルマへ反攻してくることに備えた、日本守備隊の最前線でした。
昭和17年といえば、すでに大東亜戦争が始まっています。
米英China連合軍は、一挙にビルマの首都ラングーンやマンダレーなどの主要地域の奪還は困難だったのでインドの北部のレドからビルマへの侵入を図ります。
このとき米軍は、Chinaの蒋介石支援の一環として、蒋介石直属の精鋭部隊4万人をインドに空輸し、米軍の最新鋭装備を与え、米式の訓練を施した。
これが、蒋介石自慢の新編中国軍です。
ですから、この戦闘の最高指揮官は初戦からビルマ派遣のChina軍を指揮していたスティルウェル中将が就任しています。
連合軍はレドから「死の谷」と恐れられたジャングル地帯フーコン谷地を、ミートキナをめざして進撃します。
米中軍が進撃したあとには、米工兵隊が続き、道路をつくり、石油パイプラインを敷設する。
要するに、米英China連合軍は、日本が大東亜戦争開戦とともに遮断した、ビルマ首都ラングーンからラシオ→龍陵→恵通橋→保山→昆明(雲南省の省都)へと続く援蒋ルートに代わる、インドからビルマ北部を経由して昆明に続く新たなレド公路を作ろうとしていたわけです。
それまでは、China国民党軍が、勝手に「恵通橋」を爆破して地上支援ルートを破壊してしまったために、米英は、インド各地から輸送機を使い、ヒマラヤ越えで軍需物資の輸送していました。
これをハンプ越えといいます。ハンプというのは、瘤(コブ)という意味で、ヒマラヤのコブのような山塊を越えてChina領に入るので、そう呼ばれていたそうです。
しかし、輸送機による補給は、金がかかるわりに輸送量はたかがしれています。
やはり、重たい荷物は、地上を走るに限るし、特に石油は地上輸送の方が、断然効率がいい。
ならば、いっそ新しく道路を作ってしまえ、というわけです。
レドからフーコンを通ってきた米中軍は、アメリカ軍工兵隊や情報部が支援している雲南遠征軍約72000名です。
対する日本軍守備隊は、福岡県久留米で編成された第五六師団11000名です。
守るべき正面はサルウィン河に沿った南北約250kmにまたがる、数千メートル級の山岳地帯です。
米China連合軍は、その長い防衛線の5~60kmへ、いっせいに攻撃をしかけてきた。
そして当面の攻略目標が、最前線の拉孟(らもう)と、騰越(とうえつ)だったのです。
200km以上にまたがる要地に分散配置してた第五六師団は、戦線が伸びきり補給すら満足にできる情況になかった。
加えてChina軍は、米軍の戦爆連合(戦闘機と爆撃機がいっしょに編隊を組んだもの)による爆撃支援を受け、さらに持っている武器は、米軍の優秀な大砲や火焔放射器だった。
大陸にいた国民党軍団とは、まるで装備が異なる最優秀軍団だったのです。
昭和19(1944)年6月27日、拉孟(らもう)から1カ月ほど遅れて、城砦都市騰越(とうえつ)への米China連合軍の砲撃が始まります。
騰越(とうえつ)というのは、Chinaの明の時代に築かれた、伝統的な城砦都市です。
周囲3kmくらい(各辺約700m)の城壁(高さ5M、幅2M)の壁があります。
城砦の周囲には、3kmほどの平地を隔てて、独立した高地がある。
北側には、高良山。
北東2kmには、飛鳳山、
南方2kmには、標高200Mの来鳳山
西方4kmには、宝鳳山 です。
これらの高地を奪われたら、騰越(とうえつ)城塞はまる見えです。
そこから砲撃されたら城砦はひとたまりもない。
騰越(とうえつ)守備隊は、これら周囲の高地も防衛しなければならなかった。
各山と、城の防衛には、少なくとも3個連隊7000名の兵力が必要です。
しかし、先に述べたように、50kmの防衛ラインで、日本軍にはそこまでの余力はなかった。
騰越(とうえつ)にいた日本軍守備隊は、連隊長の藏重康美(くらしげやすよし)大佐以下、福岡県久留米で編成された歩兵第一四八連隊です。
そして実際に戦力となる兵力は、歩兵約900名、砲兵300名弱です。
その他は、工兵、通信兵、衛生兵、輜重隊(補給・輸送隊)であり、憲兵も10人いた。
その合計が2025名です。
対する米China雲南遠征軍の兵力は49,600名です。
兵力差は実に25倍、さらに火力・兵器の違いを考えれば、その戦力差はゆうに100倍を超えます。その中で、騰越(とうえつ)守備隊は、80日間も城を死守した。
6月26日、騰越(とうえつ)師団通信隊は、敵部隊間の交信情報をキャッチします。いよいよやってくる。前線の緊張が高まります。
6月27日午前6時、雲南遠征軍は、まず来鳳山陣地を砲撃してきた。さらに7月にはいると、雲南遠征軍は、騰越(とうえつ)城、中央門への大規模砲撃を開始します。
この時点で、雲南遠征軍が配置した兵力は、4個師団27000名です。さらに第116師7800名が、騰越(とうえつ)南方を遮断した。守備隊の補給路を完全に遮断したのです。守備隊は孤立した。もう補給はありません。
それでも守備隊は、夜陰に乗じて周辺の山を襲撃し、これを撃退します。
7月20日には、雲南遠征軍は、騰越(とうえつ)城への総攻撃を開始する。
1日で5000発を超える猛烈な砲撃に耐え、敵が白兵戦に転じたところを狙い、反撃。守備隊は敵の総攻撃をことごとく撃退した。
この時点で、各方面に殺到した敵襲撃部隊は、それぞれ5千名以上です。
城砦だけでなく、周辺の山まで守備しなければならない守備隊側は、それぞれ数十名程度の編成です。彼らは100倍の敵を前にして、これらをことごとく退けてしまいます。
日本軍強し。
開戦から一カ月。完全装備でありながら、日本軍の陣地をひとつも抜けないChina軍は、米軍に依頼して7月26日、爆撃連合57機で、各陣地を空爆します。
そして一日5千発以上の砲撃と火炎放射機をもって、少数の守備兵で守る来鳳山陣地に総攻撃をかけた。
来鳳山守備隊は敵を邀撃し死守敢闘したけれど、敵は第一線兵力を交代しながら反復攻撃を掛けてくる。一刻の休みもなく戦い続ける来鳳山守備隊。次々と新しい兵力を繰り出してくる敵兵。
砲弾も歩兵銃の弾も撃ち尽くし、砲撃で陣地の修復もできなくなった守備隊には、もはや隠れるところすらない。
砲撃や空爆を避けるためには、壕にこもるしかないのです。しかし壕は爆撃で半壊し、そこに敵が火炎放射機を射かけてくる。
反撃しようにも弾がない。
来鳳山守備隊は、銃剣や軍刀で戦い、敵の銃や手榴弾を奪って反撃した。
しかし、死者続出の情況となります。
やむなく、蔵重隊長は、同日、城外の各陣地の撤収を命じます。
戦力を騰越(とうえつ)城内に集中させることにした。
この時点で、騰越(とうえつ)守備隊の残存兵力は
城壁南部及び旧英国領事館陣地 
 日隈大隊(第2大隊と1個中隊半)約400名
西面北半部、西北角、北面、枴角桜の陣地
 早瀬混成隊(3個小隊)     約200名
東北角、飲馬水の陣地
 高木隊(4個小隊)       約300名
中央門陣地付近
 本部および予備隊(混成2個小隊)約200名
その他
 病院              約200名
合計1300名にまで減っています。しかもほぼ全員が怪我人だった。
この間、第五六師団本体は、師団司令部が置かれていた騰越(とうえつ)から7~80キロ南の龍陵付近でChina軍と激闘しています。
なんとかして、拉孟(らもう)と騰越(とうえつ)に援軍を送ろうとしていたのです。
しかし、敵兵力は総計20万です。本体は猛烈な戦闘をするけれど、動けない。
8月に入っても、騰越(とうえつ)城への砲撃は止みません。
毎日、1日5000発を超える砲弾が撃ち込まれるのです。
1分間に8~10発の砲弾が飛んでくるのです。
しかも8月2日には、連合軍戦闘機60機が飛来し、城内に機銃掃射をした。
対する守備隊には、飛行機と戦うための高射砲すらありません。
8月3日、敵が南西トーチカを破壊します。ここを突破口にして、敵が城内になだれこんだ。
蔵重隊長は、いったん退却したあと、夜襲を掛け、侵入軍を全員退却させます。
8月5日、こんどは連合軍のB25爆撃機が、終日城内と城壁を爆撃した。
冒頭に述べたように、騰越(とうえつ)城というのは、一片700mあまりの正方形の城砦です。
いってみればこれを読んでいるあなたのお住まいの□□町□丁目くらいの小さな面積しかない。そこに終日、B25が集中爆撃をするのです。
爆撃によって城壁13ヶ所が壊され、そこからChina兵が乱入する。しかし日本陸軍の最も得意とするのが、接近戦での白兵戦です。加えて敵兵が白兵攻撃をしかけてくるときは、爆撃がやみます。
守備隊は、これら侵入部隊をすべて撃退してしまいます。
8月9日には、南西角および東南角の突破口から敵攻撃部隊(約5000)が突入してきますが、ここを守る守備隊はわずか300名程度で、敵を撃退している。
完全に攻めあぐんた雲南遠征隊は、再び米軍に泣きつき、8月13日、連合軍の戦爆連合24機を呼んで、またもや城内の大爆撃をした。
爆撃機は、狭い城内の上空を旋回し、爆撃を繰り返します。
そして爆弾数発が守備隊本部に命中し、守備隊長藏重大佐以下32名が爆死してしまう。守備隊は、次席の太田正人大尉に以後の指揮が引き継がれます。
8月14日午前7時、China兵総攻撃。
China兵が城内に殺到し、城内で白兵戦が展開される。
城内にいた日本兵は、乱入してきた約3万の敵兵に対し、わずか800名ほどで猛烈な白兵戦を展開し、正午までには、敵を全部撃退する。
あまりにも日本兵が強いため、China軍は日本兵の疲れを誘うため、以降連日、昼夜を問わず破れた城壁からChina兵がかわるがわる城内に侵入し、日本兵に休息を与えないようにしてきます。守備兵たちは、まさに不眠不休の戦いとなってしまう。
その状態を1週間続けたあとの8月21日、延べ100機を超える空襲と1万5000発の砲撃で、城内北東部に立て篭もる日本軍に対して、総攻撃が行われます。
この時点で、日本兵残存兵力は、わずか650人。
健常者はもはや、ほとんどいない。
全員が、目や手足を失い、大怪我を負った状態です。
8月25日午前11時、日本軍戦闘機12機が飛来し、残存する日本兵に、手榴弾500発、衛生材料を投下します。太田守備隊長がこれに対し、涙の返電をしています。
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久方振りに日の丸の友軍機、我らの頭上に乱舞するを見て、全員涙で感謝歓呼しました。
どうかその心情を察してください。
手榴弾の補給を受け決死班を編成し、将兵は勇躍任につきました。
友軍機飛来の際、敵は高射機関砲をもって妨害せるも、全機無事帰還せられしや。
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みずから決死の戦いをしながら、補給にきてくれた友軍機が、無事に帰還できたかを心遣う、この気持ち。これが日本人です。日本の軍人です。
9月1日には、連日侵入してくるChina軍との白兵戦によって、残存兵力は350人になっています。この日、友軍機からの空中投下による爆薬の補給を受けた。
補給によって配布されたのは、手榴弾各自1発、小銃弾10発ずつです。
小隊長が、この弾を渡す時、
「この弾が最後だ、手榴弾は自決用だぞ、大事にせよ」と、最後に言ったひとことが胸を刺した。(吉野孝公「騰越玉砕記」)
この弾が最後だ、手榴弾は自決用だぞ、大事にせよ・・・
泣いたらいけない。でも涙がこぼれる。
9月11日、残存兵力は、ついに70人となります。
太田守備隊長は、師団本部に、二通の電報を打った。
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敵は兵力を増強して攻撃を強行し、わが方を圧迫しています。
城内北東隅付近で、本部を中心に円形陣を形成して、最後の血戦を試みます。
敵の銃弾を避けるため、塹壕を掘るのですが、器材がないので、鉄カブトで穴を掘っています。
しかし敵の破壊力、大なので、まにあいません。
損害続出して、いかんともしがたい情況です。
(午前四時)
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守備隊本部前80mにおいて激戦中です。
軍旗は午前9時に、涙とともに奉焼しました。
将兵、みんながよく奮闘てくれました。
多数の将兵を失いながら、作戦を支えること至らず、申し訳ありません。
陛下の聖寿の万歳を寿ぎ奉り、兵団の武運長久を祈ります。
(午前一〇時)
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9月12日、太田守備隊長は次の電報を打って、暗号書を焼き、無電機を破壊します。
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本守備隊の現状では、あと一週間以内の持久戦を行うのは、もはや困難です。
状況によって、13日は先月お亡くなりになった蔵重連隊長の命日です。
この日を期して、最後の突撃を敢行し、武人の最後を飾ります。
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そして太田大尉は残存兵力を卒いて適中に突入します。
黒山のように群がる敵China兵の前に、わずかな人数となった守備隊最後のメンバーが、軍刀と手榴弾を片手に突撃し、全員討ち死にした。
これにより、重傷のため人事不省に陥って中国軍に収容された三名を除き、全員玉砕します。
これが騰越(とうえつ)の戦いです。
補給もない、食料もない。
わずかな手勢に対し、敵兵力は49600名を数えます。
25倍もの敵と、80日間死闘を繰り広げ、玉砕して果てた、騰越(とうえつ)守備隊。
考えてみてください。
装備も補給も十分な敵と、補給も食料もない中で80日間、必死に戦い散って行かれた若き日の私たちの祖父たちのことを。
騰越(とうえつ)の戦いは、たとえてみれば、25人の完全装備の荒くれ男たちを相手に、たったひとりで素手で80日間も戦いとおしたという戦いです。
(敵は完全装備で補給も万全で25倍の人員だった)
それでも序盤は完全に勝利している。
なるほどその喧嘩は、最後には負けたかもしれません。
しかしね、ねずきちは思うのです。
彼らが、どうしてそこまでして戦いぬいたか。
場所は陸上です。逃げようと思えば逃げることもできた。
にもかかわらず、彼らは最後の最後まで戦いきった。
もちろん命令もあるでしょう。
でもね、それだけでは決して語りつくせない勇気と義務感と義侠心が彼らにはあったということを、ボクは、思うのです。
場所は城砦都市です。当然一般人もいた。
実際、騰越(とうえつ)の戦いの爾後の写真などをみると、一般人の多くが、火炎放射機で焼かれ、爆風で手足を失い、黒焦げになった状態で城内いたるところに散らばっている様子が写されています。
男もいたし、女もいた。みんな黒焦げです。
玉砕していて記録などなにもないけれど、守備隊兵士たちは、彼ら一般人には、「先に逃げろ」と言っていたはずです。
でも、彼らは逃げなかった。守備隊と行動をともにした。
こいつらを、絶対に守りとおさにゃならん。
援蒋ルートを絶対にChinaに渡しちゃならん。渡したら、奴らはまたしてもChina各地の都市を襲い、多くの市民を殺す。
ワシらは、どんなことがあっても、ここで最後の一兵までも戦い、奴らを釘づけにせにゃならん。市民を守りとおさにゃならん。
そんな心だけで、彼らは2日に一度、少量のパンしか食べれない状況で、爆風で手足を失っても医療すら受けれない、痛み止めすらない情況下で、不眠不休で最後の最後まで戦い抜いた。
その祖父たちの勇気を活動を、わたしたちは絶対に忘れてはならないし、風化させてもならない。
日本人なら誰もが、絶対に忘れてはならない歴史がここにあるのだと、ねずきちは思うのです。
亡くなられた英霊の皆様に感謝と思う方
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