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ハリマオ
怪傑ハリマオ

ウルトラマンや仮面ライダーが流行るよりずっと以前、少年達の心を奪っていたヒーローが、「黄金バット」と「快傑ハリマオ」でした。
「黄金バット」空想上の人物ですが、「ハリマオ」は実在の人物です。
本名を谷豊(たにゆたか)といいます。
谷豊は、妹をChineseに惨殺され、復讐のために三百人ほどの地下組織を持つ義賊となり、支配者である英国人やChineseを襲い、奪った金品は私有せず庶民に与えた人物です。
マレー人になりきっていたけれど、陸軍中野学校出身の藤原機関員神本利男に日本人であることを覚醒され、日本軍のマレー作戦に協力し、三十歳でお亡くなりになっています。
谷豊
谷豊

谷豊は、明治四十四(1911)年、理髪店を営む父、谷浦吉の長男として生まれています。
豊が生まれてまもなく、一家はマレーシア北東部のクアラ・トレンガヌという大きな街に移住しました。
ここは美しいマレーシアの島々への玄関口として、いまでも多くの日本人観光客が訪れる地です。
けれど「教育は日本で受けさせたい」という親の意向で、豊は、大正五(1916)年、五歳のとき、ひとり日本に帰国します。
そして祖父母の家に滞在し、福岡市立日佐小学校に入学しました。
小学校を卒業した豊は、大正十三(1924)年、再びマレーシアへ戻り、マレーの友人たちと一緒にタコを作って揚げたり、ボクシングをしたりして、楽しい青春を過ごします。
天性の運動神経と、気の強さで、彼は喧嘩がものすごく強かったそうです。
加えて喧嘩っ早い。
豊のまわりには、いつも人が集まっていたそうです。
そして十九歳でマレー人のワンシティさんと結婚。イスラム教に改宗します。
昭和六(1931)年、二十歳になった豊は、祖国の役に立つために軍人になろうと、単身、再び日本に帰国します。
ところが身長が足らず「丙種合格」となりました。
要するに不合格だったのです。
このことは、かなりショックだったようです。
やむなく豊は、福岡のアサヒ足袋で働くようになり、その後、福岡市内の鉄工所に就職します。
この頃、豊は、美野島や柳町の飲み屋によく出かけています。
そこでもよく喧嘩をしています。
小柄で細い豊は、相手に舐められるのだけれど、サッと懐に飛び込んで、相手の腹や顎を強打します。
たいていの相手はこれで一瞬でノックアウトされたそうです。
そして給料をもらうと友人たちと博多に飲みに出かけていました。
博多には気になる女性もいたそうです。
さらに豊は、当時自分名義の田を六畝相続で持っていたのですが、これをいつの間にか売り払っています。
そのお金をどうしたかというと、なんとまるごと貧しい家庭の友人に恵んでいます。
気風(きっぷ)が良くて、頭が良くて、喧嘩が強くて、あたたかくて色男。
豊のまわりには、いつも友人が集まっていたといいます。
ちょうど、その頃のことです。
マレーシアでは、在マレーのChineseたちが、いたるところで排日暴動を起こしていました。
Chineseの気質というのは、戦前も戦後も変わりません。
彼らは要するに中華思想が根っこにあるわけで、それは、東亜は、すべてChinaが世界の中心の国であり、周辺国である日本やウイグル、チベットなどは属国である、という思いこみです。
ですから欧米はハナから敵対国だからChinaを侵略してくるのは、ある意味仕方ないことだけれど、自分たちより格下の日本がChinaより強かったり経済力があったりするのはケシカランと考える。
どうみても非常に次元の低い観念だけど、人間というのは、とかく次元の低い感情ほどムキになるし熱くなるものです。
Chineseたちは、マレー国内で暴徒の集団を作り、日本人を襲いました。各所で、日本人の営む商店や家屋を襲い、金品を奪い、男を殺し、女を強姦し、残酷な方法で殺害したのです。
昭和七(1932)年十一月、マレーシアの小さな床屋だった谷家も、Chineseの暴徒たちによる襲撃にあいます。
襲撃の少しまえに、谷家では、一家の大黒柱だった父親が急逝していたのです。
要するに谷家には、母と、妹のシズコと、弟の繁樹しかいませんでした。
この日、母親はたまたま出かけていて留守でした。
弟は英語学校に行っています。
家には、たまたま病気で寝込んでいた妹のシズコひとりだったのです。
Chineseたちの暴動がはじまったとき、たまたま英語学校から帰宅途中だった弟の繁樹は、近所の人の「逃げなさい!」という声を聞いて、あわてて近所の歯医者さんの家に駆け込んでいます。
そしてChineseの暴徒たちが、手に「生首」をぶら下げて歩いて行く様子を、歯医者さんの家の窓から目撃しています。
そして暴徒が去ったあと、自宅に戻った繁樹が見たものは、荒らされ、血まみれとなった室内と、首をねじ切られた妹の惨殺死体だったのです。
Chineseのこうした残虐性というのは、ほんとうに今も昔もかわりがありません。
いまでもウイグルやチベット、法輪功等に関して同様の集団による暴行が公然と行われています。
このときも、Chineseの暴徒たちは、妹の首を持ち去り、まるでサッカーボールのように、蹴り転がしていたそうです。
記録にはないけれど、もしかすると幼い妹は暴行もされていたのかもしれない。
夜になって、繁樹と隣家の歯科医は、妹の生首を奪還してきてくれました。
そして泣きながら首と胴を縫い合わせてくれたそうです。
あまりのことに、事件後母と弟は、マレーの家を引き払い、日本に引き揚げてきます。
当時は、いまのように携帯電話もなければ、郵便事情も整っていない時代です。
日本にいて何も知らなかった豊は、帰国した母親から、この事件の顛末を聞きます。
そのときの豊の気持ちは、察して余りあります。
大切な妹を、大好きな可愛い妹を、自分のいないときに異国の地で、生きたまま首をねじ切られたのです。
どんなに痛かったろう、どんなに辛かったろう。救うことができなかった、助けてやることができなかった。
悔しくて、悲しくて、どうしようもなくこみ上げる気持ち。
豊は、復讐のために冷たく血を冷やします。
そして昭和九(1934)年七月、単身マレーシアへ向かいました。
マレーのクアラ・トレンガヌへ帰ってきた豊は、昔の家の近くで理髪店を営みます。
店は結構、繁盛しました。
豊は、床屋を営むかたわら、妹殺害の犯人探しを始めます。
妹を殺したChineseは、逮捕され、裁判にかけられたものの無罪放免となり、消息不明になっていたです。
なぜ?と思うかもしれません。
この時期、マレー国内の経済は・・・それは今もだけれども・・・Chineseの華僑が牛耳っていたのです。
そしてマレーという国の形がどうあれ、ChineseたちはChineseの理屈で動きます。簡単にいえば、カネで買収して裁判の判決を無罪にしてしまっていたのです。
欧米は、いわゆる「契約社会」です。結婚も神との「契約」だし、官と民の関係も「法」という名の「契約」に基づきます。
民間どおしの関係も同じです。すべては契約に基づきます。
けれどChineseは異なります。
彼らは「人治社会」です。人が判断するものだから、人次第で判決も、どうにでもなる。
ついでにいえば、日本は「相互信頼社会」です。
嘘をいうこと、信頼を損ねることが不実とされます。
悪いことをしても、捕まれば「おそれいりました」となるし、従容として裁決に従います。それが日本人です。
けれどChineseは、嘘を言おうが捕まろうが、上に立つ者が、していないと認めれば、それはなかったことになる。それがChinese社会です。
マレーで床屋を営んだ豊は、この時二十一歳でした。
豊は、統治者である英国官憲に強く抗議しました。
無罪とは何事か。事実関係はちゃんと調べたのか。犯人の居場所を教えろ等々。
しかし、しつこく食い下がる豊は、逆に不審者とみなされ、英国官憲に投獄されてしまいます。
出所後、ツテを辿って日本の政府関係者にも陳情するけれど、誰も取り合ってくれません。
まるで拉致被害者に対するこれまでの日本政府と同じです。
味方が居ないことを知った谷豊はひとり復讐を決意しました。
そうしてマレーに帰って一年を過ぎたころ、豊は突然店を閉めて、姿を消してしまいます。
それからしばらくして、英国人とChineseの事務所だけを襲う盗賊が出没しました。
最初の事件は、昭和十二(1937)年トレンガヌ州政府土地局が襲われた事件でした。
ここでは土地証文や債券、手形など時価三万ドルが盗まれました。
ただし人的被害者はいません。
次に起こった事件は、タイの国境の町スンガイ・コロです。
白人の経営する金鉱山で、純金八本が金庫から盗まれました。
手口は同じです。ここでもやはり、人の殺傷は一切ありません。
同様の犯行は、次々と続きました。
裕福な英国人の豪邸に忍び込み、金品を盗み取る。
そしてその金品が、付近の貧しいマレー人の家にばらまかれる。
マレー人たちは大喜びです。
そしてこの盗賊は、いつしかマレー人たちの間で、「ハリマオ」と呼ばれるようになります。
ハリマオというのは、マレー語で「虎」という意味です。
やがてハリマオを頂点とする盗賊団は、Chinese華僑の豪邸や商店も標的にするようになります。
殺しはしない。
しかしときには金塊を積んだ鉄道車両を爆破するなど大規模な犯行も行っています。
幼い子供時代と青春時代をマレーで過ごした豊は、マレー語がとても堪能でした。
そのためハリマオ盗賊団のマレー人の新しい部下などは、ハリマオが日本人であるということさえ、まったく知らなかった者も多かったそうです。
昭和十六(1941)年四月、豊はパタニで逮捕され、留置所に収監されました。
神本利男(かもととしお)が現れたのは、ちょうど豊がバタニの刑務所にはいっているときでした。
神本は、豊の身柄を引き取ると、数回にわたり豊と長時間の接触をもちます。
この神本利男という人物は、昔、テレビドラマ「大岡越前」で主演した俳優の加藤剛にちょっと似たタイプの男です。
神本利男(かもととしお)
神本利男

色男でもの静かですが、固い信念を持っています。
神本は、もともとは警察官でした。
そして満州で甘粕正彦憲兵大尉から絶大な信頼を得ます。
そして神本は、警察官を退官すると、道教の満州総本山である千山無量観(せんざんむりょうかん)で三年間修行を積みます。
そして満州の影の支配者とも呼ばれた葛月潭(こうげったん)老師の門下生となりました。
当時、満洲道教会で葛月潭老士といえば、超大物です。
そして葛月潭老師の門下となることができた日本人は、神本と大馬賊として有名な小日向白朗の二人だけです。
神本は、それだけ優秀な人物だったということです。
ところで、大東亜戦争開戦が近づいた頃、バンコクに駐在する特務機関の田村大佐は、開戦を睨んでマレー工作を命じられていました。
当時はChina事変の最中でもあります。
Chinaでは、蒋介石が国民党を率いてChina各地で乱暴狼藉略奪強姦虐殺強盗の限りを尽くしていた、そんな時代でした。
日本軍は、蒋介石を追い込み、China各地に平和と安定、治安の回復をもたらしていたけれど、その蒋介石が北京・上海から南京へと逃れ、そこからさらに逃亡してChinaとビルマの国境付近である雲南省にまで逃げていく。
その雲南の蒋介石のもとには、英米豪が軍事物資や兵器、食糧を送り込んでいます。
Chinaが無政府状態となり、China全土で略奪暴行が日常的に行われていた時代です。
農地は荒らされ、家畜は殺される。
これでは庶民は食えません。
食えなくなった庶民は、日本軍怖しとデマを飛ばされ、英米から食料支援を得ている蒋介石のもとに集まる。
蒋介石軍の人数が増える。
国民党軍の勢力が盛り返す。
その悪循環を断つためには、日本は、英米豪の蒋介石への支援ルートを断たなければならなかったのです。
日本が英米豪に宣戦布告すれば、日本は軍をマレーからビルマに北上させ、援蒋ルートを遮断することができる。特務機関の田村大佐は、神本に白羽の矢を立てます。
マレー国内に、日本軍と連携し行動を共にしてくれる仲間を作る。
それには、ハリマオ義賊団を巻き込むのがいちばんよい。
神本は、密命を帯びてマレー半島を南下します。そして道教のネットワークを使い、ハリマオ=谷豊の居場所を難なく突き止め、タイ南部の監獄に収容されていた谷豊を解放し、日本軍への協力を依頼したのです。
このとき豊は「俺は日本人ではない」と、マレー語で叫んだといいます。
「違う!、お前は日本人だ」という神本に、豊は複雑な胸中を語ったそうです。
妹の殺害事件で、日本政府に陳情しても「あきらめろ」と言われた。
やむなく盗賊となって復讐をはじめたが、俺は人殺しは一切しなかった。
盗んで得た金品も、みんな貧しい人々に分け与えた。
しかし日本人は、「盗賊など恥晒した」と俺を非難した。
豊は、日本から見捨てられたと感じていたのです。
神本は静かに説得しました。
「まもなく、この半島は戦場になる。俺は、マレーをマレー人に戻したいと思っているんだ。そのために君の力を貸りたい。マレー半島はこれまで、白人によって四百年間もの間、支配され続けてきている。反政府運動は、バラバラにされ、すべて簡単に鎮圧されてきた。だがな谷君、日本軍に現地人が協力してくれるなら、日本は必ず英軍を駆逐して植民地支配を終わらせることが出来る。それは必ずできる。」
「豊、小金を奪えば盗賊だが、国を奪えば英雄じゃないか。」
豊は、神本の人間的な魅力に、ぐいぐい引き寄せられる自分を感じたそうです。
さらにイスラム教の信者となっている豊の前で、道教の信者のはずの神本は、イスラムのコーラン第一章アル・ファティファ(開端章)全文を暗誦してみせました。
豊は決心しました。
「わかりました。あなたについていきます」
ちなみに、この頃のハリマオ団は、実数は約三百名です。
けれど一般には「配下三千名の大盗賊団」と言われていました。
そう思われるくらい、豊はメンバーを選りすぐりの者で構成していたのです。
配下のメンバーは、ひとりひとりが特殊技術の技能集団だったのです。
実際、豊の部下達は、付近の漁民の船が壊れると、それを無償で修理したり、困っている人たちへ無償で様々な奉仕活動をしていました。
さて、神本の説得に応じた豊のもとには、藤原機関から多額の軍資金が出るようになりました。けれど豊は、受け取った軍資金を、まるごと近隣の村人たちのために使っています。
昭和十六(1941)年、日本との開戦を予期していた英国軍は、日本軍がタイからマレー半島を縦断して進撃してくると想定し、マレー北部のタイ国境から三十キロ南の小さな集落ジットラに防禦陣地を建設します。
英国のシンガポール防衛のための防衛ラインです。ジットラ・ラインといいます。
この陣地建設現場に、ひそかに現地人としてハリマオの一党が浸透します。
一党は、同じく防御陣地建設に狩り出されたマレー人労働者によびかけ、仕事に微妙に手を抜きます。
さらにトーチカの場所や地形などを調査し、精密な地図を作って日本軍に送ります。
このジットラ要塞について英国軍は「いかなる攻撃でも三ヵ月は持ちこたえる」と豪語していたそうです。
しかしどんなに見かけが立派でも、中身が手抜き工事で、内部の情報が筒抜けになっていたら、腐った老木と同じです。
いざ戦端が開かれると、わずか二日でジットラ要塞は堕ちてしまいました。
谷豊のハリマオ団の見事な工作と調査の賜物であったことはいうまでもありません。
また英軍は、大東亜戦争開戦に先立って、タイ南部から上陸する日本軍を水際で阻止するためのマタドール計画という作戦も進めていました。
これは英軍の精鋭部隊が密かに国境を越えて、日本軍がやってくるのを待ち伏せ、一気にせん滅を図るという作戦です。
この作戦もハリマオ団によって、事前に詳細が洩れ、日本軍は開戦後、英軍を避けて悠々と上陸を果たしています。
ちなみに、この作戦にも明らかなように、大東亜戦争は「日本の一方的な真珠湾攻撃によってまるで騙しうちのように始まった」という左翼や反日の宣伝は、まるで嘘八百です。
英米豪は、ABCD包囲網を作り、日本がもはや開戦以外に選択の余地がなくなるように仕向け、開戦と同時に、徹底的にこれを粉砕しようと、事前に十分に体制をとって、手ぐすねひいて待ち構えていたのです。
昭和十六年十二月の大東亜戦争開戦からちょうど一ヶ月が経った頃、日本陸軍の藤原岩市参謀は、マレー北部の小さな村で、豊に会います。
藤原は、そのときのことを著書「F機関」に次のように書いています。
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「なに。谷君が待っているのか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」
私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。
数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。
私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、
「谷君。藤原だよ。よいところで会ったなあ。御苦労。御苦労。ほんとうに苦労だった」と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。
谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。
私がダム破壊工作の成功を称えると、谷君はこう答えた。
「いいえ。大したことはありません。ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。それから山づたいに英軍の背後に出て参りましたが、日本軍の進撃が余りに早いので遅れがちになって思う存分働けなかったのが残念です。この付近では英軍の電線を切ったり、ゴム林の中に潜んでいるマレイ人に宣伝したり致しましたが、日本軍のためにどれだけお役に立てたことでしょうか」
「君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や、兵にも優る功績なんだよ」というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、
「有り難うございます。豊は一生懸命働きます。私の命は死んでも惜しくない命です。機関長の部下となり、立派な日本男児になって死ねるなら、これ以上の本望はございません」としみじみ述懐した。(F機関一七六~一七七頁)
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藤原岩市参謀
藤原岩市参謀

マレーにおける特務機関の長である藤原は、当然、豊の過去の悲劇を知っています。
どこまでの謙虚でいじましい豊の態度は、藤原の心に涙を誘ったといいいます。
しかしこのとき豊の体は、すでにマラリアに冒されていたのです。
初めての対面からおよそ一週間経った頃、藤原参謀のもとに「谷豊がマラリアを再発し危篤です」という報せが届きます。
藤原は、豊と行動を共にしている神本に、即時、豊をジョホールバルの陸軍病院に移すよう命令します。
藤原は語ります。
「一人として大切でない部下はいない。しかし、わけてハリマオは、同君の数奇な過去の運命と、このたびの悲壮な御奉公とを思うと、何としても病気で殺したくなかった。敵弾に倒れるなら私もあきらめきれる。けれども病死させたのではあきらめきれない。私は無理なことを神本氏に命じた。『絶対に病死させるな』と」(同二四七頁)
シンガポール陥落から数日経ったある日、藤原参謀は豊を見舞います。
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私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った。見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは、
「充分な働きが出来ないうちに、こんな病気になってしまって申し訳がありません」と謙虚に詫びた。
私は、
「いやいやあまりり無理をし過ぎたからだ。お母さんのお手紙を読んでもらったか。よかったね」というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。
私は更に、
「谷君、今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったぞ」と伝えると、ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ、
「私が! 谷が! 日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!」と叫ぶようにいった。ハリマオの余りの喜びに、むしろ私が驚き入った。(前掲書二六九頁)
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官吏というのは、今の国家公務員です。盗賊として日本人から白眼視されていた豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだったのです。
開戦の一ヵ月前、豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いています。日本を離れて長い年月を過ごした豊の手紙は、たどたどしいカタカナで綴られています。
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お母さん。豊の長い間の不幸をお許し下さい。
豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配しております。
お母さん。日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。
豊は日本軍参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くこととなりました。
お母さん喜んで下さい。
豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
豊は近いうちに単身英軍の中に入って行ってマレイ人を味方に思う存分働きます。
生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。
お母さん。豊が死ぬ前にたった一言、いままでの親不幸を許す、お国のためにしっかり働け、とお励まし下さい。
お母さん。どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。
そしてお母さん。長く長くお達者にお暮らし下さい。
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谷豊とその家族

昭和十七年三月十七日、快傑ハリマオとして名を馳せた谷豊は永眠します。
享年三十歳でした。
臨終を見守っていた配下のマレー人が日本軍に求めたのは白い布二枚だけだったそうです。
それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものでした。
豊の棺は、部下たちに担がれて病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬されます。
その頃、藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていました。
そこで豊の訃報を受け取ります。
「北部マレーの虎として泣く子も恐れさせた彼は、マライの戦雲が急を告げるころ、翻然発心して純誠な愛国の志士に還った。彼は私の厳命を遵守した。彼は勿論その部下も、私腹を肥やすことも、一物の略奪も、現住民に対する一回の暴行も犯すことがなかった。」(前掲書)
近年マレーシアのテレビ局が、ハリマオ=谷豊の特集を放映したそうです。
その番組の最後には、次のような言葉が流れたそうです。
「イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。
心を捉えたのは、 マレーを愛した一人の日本人だった」
写真は、豊の家族の写真です。左端が豊。左から三番目が亡くなられた妹さんです。
谷豊の御霊は、いまも英霊として靖国に祀られています。
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快傑ハリマオ OP 「アラフラの真珠&南蒙の虎」編