
↑のお写真は、昭和天皇のご生誕翌年ごろのお写真です。
ほんとうに、凛々しく、そして可愛いく、ご立派です。
昭和天皇は、明治34(1901)年4月29日、明治天皇の初の皇孫(こうそん)殿下としてお生まれになられました。
明治天皇は、「名は裕仁(ひろひと)、称号は「迪宮(みちのみや)」とお命じになられました。
「裕」は、易経の「益徳之裕也」、詩経の「此令兄弟綽々有裕」、書経の「好問即裕自用即小」、礼記の「寛裕者仁之作也」から。
「迪」は、書経の「允迪厥徳謨明弼諧」、「恵迪吉従逆凶」から採られたのだそうです。
なにやら難しい漢字が並んでしまいましたが、簡単にいうとは、
「広く大きな心で国を治め、人類の幸福に尽くすように」
という意味が、裕仁の二字に込められていいるのです。
それが、明治天皇の理想であり、昭和天皇が生涯を通じてお心がけになられたことでもある。
ていうか、昭和天皇の御生涯そのものといえるのではなかったか。
明治天皇は、とても威厳のあるお方で、その鋭い眼でじっとご覧になられると、重心でさえも小さくなってしまったそうです。
ところが、迪宮(みちのみや)さまだけは平気で「おじじさま、おじじさま」となついておいでだったそうです。
相手が大国であれ、小国であれ、どんな相手でも媚びへつらったり居丈高になることなく、みな等しく御親交召されるのが陛下です。
その陛下に、自称大国だからと、それもナンバー6あたりを、一部の政治家のご都合主義で、勝手に変更し、大国優先の先例を作ったなどというのは、暴挙もはなはだしい。
昭和天皇の御幼少時のお写真が出たので、今日はすこし昭和天皇の幼少時のエピソードをいくつかご紹介したいと思います。
明治天皇は、ふるくからのしきたりに従い、生後70日の迪宮(みちのみや)さまを、7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸にお預けになります。
川村家では、五つの教育方針をお立てになり、迪宮(みちのみや)さまを3歳まで御養育された。
このときの教育方針が、つぎのものです。
◆川村伯爵五つの養育方針◆
一、心身の健康を第一とすること
一、天性を曲げぬこと
一、ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと
一、難事に耐える習慣をつけること
一、わがまま気ままの癖をつけさせぬこと
ほんの小さな子供のうちから、わがままを許さず、人を尊び、難事に耐える習慣を身につける。
すごいと思います。

この頃のエピソードがあります。
ある日のこと、夕食の膳に、迪宮(みちのみや)さまがきらいなものを見つけたそうです。
で、「これいやっ」と箸を投げ出した。
川村伯爵は、平素おだやかな眼を厳しくし、
「おいやならお食べにならなくてもよろしい。爺はもうご飯を差し上げませぬ」と申し上げ、お膳を引き寄せてしまわれたそうです。
迪宮(みちのみや)さまは、「食べる食べる」と泣いて謝り、以後、二度と食べ物の好き嫌いを申されることがなくなった。
子供というのは、こうして躾をするものなのだと思います。
なにも子供のわがままにつき合うのばかりが親の仕事ではない。
明治39(1906)年5月から、迪宮(みちのみや)さまは、青山御所内に設けられた幼稚園に通います。
そして翌明治40(1907)年4月に、学習院初等科に入学する。

この頃の学習院院長が乃木希典陸軍大将です。
乃木院長は、厳格な6つの教育方針を立て、全職員にその実行を固く命じた。
◆六つの教育方針◆
一、健康を第一と心得べきこと
一、御宜しからざる御行状と拝し奉るときは、
これを矯正申し上げるに御遠慮あるまじきこと
一、御成績については御斟酌然るべからざること
一、御幼少より御勤勉の御習慣をつけ奉るべきこと
一、なるべく御質素にお育て申上ぐべきこと
一、将来陸海軍の軍務につかせらるべきにつき、
その御指導に注意すること
裕仁親王殿下は、東宮御殿から学習院まで、雨の日も風の日も徒歩でお通いになられます。
乃木院長は、毎朝、欠かさず正面玄関で殿下をお迎えなされた。
殿下は、院長の数歩前で停まり、欠かさずに礼儀正しく挙手の礼をされたそうです。
殿下は乃木院長の質素の教育をよく守り、つぎ当ての服を誇らしげに着て通学されたし、鉛筆は握れなくなるほど、消しゴムは豆粒ほどになるまで、お使いになられたといいます。

この学習院初等科時代に、養育係をお勤めになったのが、「足立たか」です。
裕仁親王は、たかをたいへん敬慕し、多大な影響を受けたといいます。
裕仁親王殿下が、学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か?」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたそうです。
ところがこのとき、裕仁親王一人だけが「源義経」と答えた。
教師が理由を聞くと、「おじじ様(明治天皇)の事はよく知らないが、義経公の事は“たか”がよく教えてくれたから」と、笑顔で答えられたそうです。
それだけ“たか”の影響が強かったということなのだろうと拝察します。
この足立たかは、その後、大東亜戦争を終結へと導いた鈴木貫太郎の妻になります。
2・26事件で、青年将校たちの銃弾五発を体内に受け、医者に運ばれた貫太郎が心停止となり、医者から「ご臨終です」と告げられた時、枕元にいた「たか」が、「あなた、起きなさいっ!」と一喝したら、心停止していたはずの貫太郎が、びっくりして息を吹き返した、なんてお話がありました。
→ねずきちブログ「鈴木貫太郎」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-678.html
ちなみに「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という言葉は、山本玄峰という老師が、“たか”の夫である鈴木貫太郎に贈り、その言葉が、陛下の終戦の詔勅となっています。
話を戻します。
裕仁親王殿下は、乃木希典を「院長閣下」と呼んで、尊敬していたそうです。
ある人が「乃木大将」と乃木を呼び捨てたとき、殿下(当時)は、
「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したといいます。
大正元年(1912年)、明治天皇御大葬の前々日、乃木院長閣下は、願い出て参内し、大切なところに朱点した山鹿素行の「中朝事実」を、顔を涙で濡らしながら、裕仁親王殿下に御講義された。
乃木のただならぬ気迫と様子に、裕仁親王殿下は、
「院長閣下は、どこか遠いところへでも行かれるのですか?」とお尋ねになったといいます。
このときの講義は、殉死を前にした乃木の裕仁親王殿下に伝える渾身の講義だった。

山鹿素行といえば、大石内蔵助の討入の際の、山鹿流陣太鼓ばかりが有名ですが、実は、赤穂藩とも関連が深く、また、幕末の吉田松陰は、山鹿流兵学師範です。
つまり、山鹿流は、幕末の志士達の基本理念となっている。
講義に使われた山鹿素行の「中朝事実」は、大約すると、
「Chinaでは王朝が何度も替わり、家臣が君主を弑することが何回も行われている。
Chinaは勢力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。
これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。
Chinaは中華ではなく、日本こそが中朝(中華)である」というものです。
内容が素晴らしいので、こんどご紹介しますね(^^)b
ともあれ、万世一系の天皇をいただく日本は、ほんとうに幸福なのだと思います。
以下の文は、もしかするとご不敬になるかもしれないので、ご不満な方は読み飛ばしていただいて結構です。
飛騨に、阿礼さんというお宅があります。
その阿礼家というのは、古事記を口伝した稗田阿礼(ひえだのあれ)家なのだそうで、阿礼家には、代々伝わる口伝がいまでも伝承されているのだそうです。
稗田を「ひえだ」と読んだのは新井白石で、本当はなんと読むのかわからない。
もしかしたら、稗田と書いて単に「ひだ」と読むのが正しいのかもしれません。
つまり、稗田=飛騨で、飛騨の阿礼家に伝わる口伝の方が、古事記よりも正しいのかもしれない。
その口伝によると、実は神武天皇以前に、すくなくとも天皇家は250代以上続く家として日本にあったのだそうです。250代というと、だいたい6000年です。(もしかするとボクの記憶違いで25代かもしれない。間違ってたらごめんなさい)
そしてその口伝によると、代々天皇は「上代様(うわかたさま)」と呼ばれて、民から慕われていた。
みんなにつらいこと、苦しいこと、たいへんなことがあると、いつも上代様やその兄弟たちが率先して、みんなのために働いてくれた。だから、みんなの尊敬が自然と集まった。
そして大昔の日本は、末子相続制(末っ子が家督を継ぐ)で、家督を継ぐ末っ子以外のおにいちゃん、おねえちゃんたちは、民間の家とみんな縁戚関係になっていった。
つまり、上代様の一族と、ほとんどの庶民は、みんな縁戚関係になった、というのです。
これは、ねずきちは、非常にわかりやすいお話だと感じました。
日本における天皇家は、私たち日本人の感覚として、いわゆるヨーロッパの王族や、Chinaの皇帝などと、まったく異なる。
むしろ、本家と分家の関係に近いように思うのです。
つまり、総本家=天皇家、分家=日本のいろいろな家系です。
実際、家系図を手繰っていくと、たいていのお宅は、(日本人なら)かならず天皇家につながる家系図を持っているそうです。途中で分家となっていても、分家になったところから、本家筋を辿っていくと、どの家系図も、最後はみんな天皇家に行きつく。
家系図は家柄の権威付けのために、みんな天皇家と縁続きと謳ったなどと学校では教えますが、いやいやとんでもない。実は、ほんとうに縁続きだったのかもしれない。
だから、天皇とわたしたち日本人の関係は、感覚的に、王様と家来、王様と民衆という上下関係などでは、決してない。
むしろ、本家と分家の関係に近いんだよ、っていわれたほうが、なにかこう、しっくりくるように感じます。
鈴木さんのお宅でも、斉藤さんのお宅でも、高橋さんのお宅でも、どこの家でもそうだけれど、日本人のお宅なら、やっぱり本家でなにやら法事があるとか言われたら、いやおうなく、みんなが集まる。それって、上下関係とか本家による分家支配とか階級差とかというものでは決してないし、本家と分家の契約関係でもない。だいたい本家と分家間の本家分家関係契約書などというものは、みたことも聞いたこともない。
本家が侮辱されたら、やっぱ、腹が立つし、本家がみんなから慕われると、なんだか自分のことのようにうれしい。こういうのってそういう教育を受けたからとかそういう問題じゃなくて、きっと、血の問題だと思うのです。
いまでは、家系図も消えてしまって何十代も経ち、もう血のつながりがどうとかなんてまるでわからなくなっているけれど、きっと遺伝子レベルで、多くの日本人、もとから日本にいた日本人、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸時代から代々続く日本人なら、おそらくほとんどの人が、陛下を侮辱されたら、カンカンに怒るし、陛下がご健康と聞くと、なんだかホッとする。これってきっとDNAの仕業なのかもしれません。
だから、汚沢のような日本人のDNAを持たない者には、こういう心理は、まったくわからない。理屈じゃないから、なおわからない。
すみません。ボクは、ここで自分が天皇と縁続きだとか、そういうことを言っているのではありません。自分がどうとかではなくて、日本人みんなの総本家が天皇なんだ、っていう上述の飛騨の阿礼家に伝わるという口伝・伝承が、感覚的にすごくしっくりくる、ということを言いたいだけです。
おそらく、多くの日本人が、冒頭の陛下のご幼少の頃のお写真をみたとき、とてもうれしく、誇らしい気持ちを持つと思います。
そして、昭和天皇が、幼いころに、きびしい教育を受けましたとか、こんなエピソードがありましたと聞くと、なにやら、それが自分のことのように、とっても誇らしく、またうれしく感じる。それが普通の日本人の普通の感覚なのではないか。
一方で、陛下になにやら無理強いをしたり、陛下がお悲しみになるようなことをするヤカラには、殺しても飽き足らないくらいの強い感情を抱く。それもごく自然な日本人の感覚です。
ちなみにボクは、戦後の教育を受けて育っています。
天皇については、日本国憲法により日本国国民統合の象徴であると教わった。天皇を尊敬せよとか、お写真をみたら敬礼しなさいとか、そういう教えは、これまで一度たりとも受けていません。
それでも、やはり、お幸せそうなご皇室のたよりを観たり聞いたり読んだりしたら、なにやらうれしいし、陛下のご尊顔を拝すると、とってもなつかしく、誇らしい。
今上天皇と美智子さまの笑顔のお写真などをみると、それだけでなんだかとっても嬉しくなる。
これって、教育されたとか、教え込まれたとか、そう思いこまされたとかいう以前の、もっと根源的な感覚なような気がします。
分家同士なら、ライバル関係もあるし、兄弟が言い車を買ったりすると、コノヤロなんて思ったりするけれど、本家が相手では、まるでそんなことは感じない。
本家と分家は、ライバル関係でも、上下関係でもないからです。
なら、どういう関係か? といわれれば、それは、本家と分家の関係だ、としか答えようもない。
陛下の政治利用についても、およそ日本人なら、そういうこと自体、思いもつかない。だって、それって「本家を政治的に利用する」ということでしょ?
よほど欲に目がくらんだとんでもない奴でもなければ、そんなことを思うやつは、普通、どこの家でも、まず、いやしません。
いいかえれば「本家を政治利用」しようとするような奴は、もはや日本人でない。
要するに、日本語が話せるだけの外国人、われわれ日本人にとっては、アカの他人です。ガイジンです。ヨソモノです。
そして日本という国は、陛下という日本人の総本家を中心にまとまっている国家です。
日本は、日本人のモノです。
それがわからないヨソモノに政治を委ねる必要など、まったくないのです。
↓クリックを↓

