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22名の私たちが、
自分の手で生命を断ちますこと、
軍医部長はじめ婦長にも
さぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。
私たちは敗れたりとはいえ、
かつての敵国人に犯されるより死を選びます。
たとへ生命はなくなりましても、
私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、
日本が再びこの地に還ってくる時、
ご案内いたします。
その意味からも
私どものなきがらは土葬として
この満洲の土にしてください」
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これは、大東亜戦争が終わって10か月も経った昭和21年6月21日に書かれた、ある看護婦たちの遺書です。
彼女たち22名は、この遺書を書いたあと、制服制帽姿で、めいめいの胸のあたりで両手を合わせて合掌し、足を紐(ひも)できちんと縛り、青酸カリをあおって、集団自決しました。
何があったのでしょうか。
すこし時間をさかのぼります。
昭和20年8月8日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に廃棄して、突如、満洲にいた日本軍に襲いかかりました。
満洲の東部国境付近にある虎林の町には、松岡喜身子婦長以下34人の日本人看護婦が勤務する野戦病院がありました。
戦争が終わり、彼女たちは、武装解除した日本軍人らとともに長春に移されました。
そしてソ連占領軍から看護婦たちのみ、八路軍長春第8病院で勤務で勤務せよと命じられました。
半年ほども経った昭和21年春のこと、松岡婦長らはソ連軍から「城子溝にあるソ連陸軍病院第二赤軍救護所に、日本人看護婦数人を派遣せよ」と命じられました。
「勤務は1カ月間、月給は300円」という破格の好条件です。
なにかうさんくささを感じながらも、逆らえば命はありません。
婦長は、軍医らと相談のうえ、優秀で気丈な大島はなえさん(当時22歳)ら3人を選んで、送り出しました。
1カ月以上過ぎたとき、さらに3人の日本人看護婦を送れという命令がきます。
また1か月、また3人です。これで都合3回目です。
そして、それは4回目の3人を送り出さねばならなくなった6月19日の早朝に起こりました。
長春第8病院の入り口に、女性がドサリと、倒れかかってきたのです。
日本人の若い女性でした。
その女性は、振袖の着物を肌もあらわなイブニングドレスに仕立てた服を着ていました。
素足で長い距離を歩いてきたらしく、足はむくみ、傷だらけでした。
顔も傷だらけでした。
すでに大量の出血をしたらしく顔面蒼白、体には11ヵ所もの盲貫銃創(小銃弾身体の途中で止まっている傷)を負っていました。
全身が血まみれの情況でした。
そして服にも体にも、鉄条網をくぐったときにできたと思われる傷跡が無数にありました。
すでに失血状態でした。
脈拍も不規則でした。
なにより驚いたのは、その女性は最初に送り出した看護婦の大島はなえさんだったことでした。
大島看護婦は、そのひん死の状態の中で、ようやく言葉を発しました。
「私たちは、ソ連の病院に看護婦として呼ばれたはずなのに、最初からソ連軍将校の慰みものにされたわ。
いやといえば、殺される。
あとから送られてきた同僚の日本人看護婦たちもみな同様の目にあっているわ。
もうこれ以上、看護婦を送らないよう、なんとか知らなくちゃ、それだけで逃げてきたのです。」
その言葉を最後に、22歳の大島さなえさんは、お亡くなりになりました。
翌日の午後、満洲のしきたりに習って大島看護婦は土葬されました。
残された看護婦のみんなは、髪の毛と爪をお骨がわりに残しました。
翌6月21日の朝です。
出勤した松岡婦長が医局に入ると、もう午前9時を過ぎているのに看護婦たちの姿がありません。
いつもなら彼女たちの、明るい元気な声が満ちているはずの時間です。
婦長は胸騒ぎを覚えました。
そして、3階の看護婦控室まで駆け上がりました
3階は、不気味なほどひっそりしていました。
控室の入り口には、一同の靴がきれいにそろえて置いてありました。
障子を開けると、大きな屏風がさかさまに立ててありました。
中から、お線香の匂いがしました。
婦長は、屏風の向こうにまわりました。
そこに22名の看護婦たちがいました。
全員、きちんとした制服制帽姿でした。
そして、横たわり、めいめい胸のあたりで両手を合わせて合掌していました。
足は、制服のスカートのすそが乱れないように、紐できちんと縛っていました。
全員が、死んでいました。
22体の遺体の中央には、小さな机が置いてありました。
その上に、前日に弔いをした大島はなえさんの遺髪の箱が飾られ、線香と水が、きちんと供えられていました。
その横に遺書が置いてありました。
それが冒頭の遺書です。
彼女たちは、全員、青酸カリで集団自決したのでした。
全員、若い娘さんです。
恋もすれば、好きな人もいたかもしれない。
彼女たちの笑顔で救われた患者さんたちも多かったに違いない。
「たとへ生命はなくなりましても、
私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、
日本が再びこの地に還ってくる時、
ご案内いたします」
満洲開拓団の一員として、貧困にあえぐ満洲の人たちを救けるためにと志願した女性看護婦たちでした。
その頃、日本だって貧しかったのです。
けれど、それ以上に貧しく苦しい生活をしている人たちが満洲にいました。
ですから彼女たちは彼女たちなりに、懸命に、多くの人たちをひとりでも救おうと、命をかけていました。
それが「たとえ命がなくなりましても私たちは永久に満洲にとどまります」という言葉です。
だからこそ「日本が再びこの地に還ってきたらご案内いたします」と言っているのです。
だからこそ「私たちの亡骸は、満洲の地に埋めてください」って言っているのです。
このお話には、後日談があります。
ボイラー係の満人の話によると、死の当日、彼女たちのうちのひとりが、ボイラー室に大きな包みを二つ、持ち込んできたのだそうです。
そして、これを目の前で燃やしてくれと言いました。
ボイラー係りは、その場で燃やしてあげました。
それは彼女たちの汚れ物でした。
彼女たちは、覚悟を固めたとき、汚れ物の一枚も残さなかったのです。
それは、最後まで女性としての誇りを失うまいとした彼女たちの、女性としての心得だったのでしょう。
涙を誘います。
せまい島国の中で、人々が互いに縁戚関係を結び、助け合い、支えあってきた歴史を持つ日本と、殺しあい、奪い合って生きてきた大陸の歴史と文化は、まるで違います。
昭和20年8月20頃のことです。満洲の新京の町の病院の玄関で騒ぎがありました。
現場にいた医師の目撃談です.。
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大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。
12~3の少女から二十歳ぐらいの娘が十名程タンカに乗せられて運ばれていた。
それはまともに上から見ることの出来る姿ではなかった。
その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。
大腿部は血がいっぱいついている。
顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞きとれない。
次の女性はモンペだけをはぎとられて下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。
次の少女は乳房を切られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。
次もその次も、ほとんど同じ姿である。
一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無惨、残酷さに敗戦のみじめさを知った。
(「されどわが満州」p172~3)
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北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。
折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不憫に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですといって私に見せてくれた。
(「ある戦後史の序章」の中にある石田一郎の手記)
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満洲国開拓団殉難者の碑は、全国に170基あります。
彼らの運命は悲惨そのものでした。
しかし、その悲劇は、いまも続いています。
もともと中華人民共和国の領土の3分の2は、ウイグルやモンゴル、チベットなど、もともと他民族の土地です。
ちなみに、中国の動物、平和と友好のシンボルといわれているパンダは、もともと中国には生息していません。
あれは、もともとチベットに生息する動物です。
文化大革命による世界的非難をカバーするために、中共は、他国の、他民族の財産というべき、チベットのパンダを世界中に配り、平和と友好をアピールしたのです。
中共は、そのチベットで120万人を虐殺し、6000か所以上の歴史ある寺院を破壊しました。
東トルキスタンでは、現在までに、すくなくとも125万人が殺され、繰り返し行われる核実験による死者が他に19万人、被爆被害者は100万人を超えています。
China領の南モンゴルでも、70万人以上のモンゴル人が虐殺されました。
それだけではありません。
中共は、大躍進政策の失敗で、自国民4300万人を餓死させました。
文化大革命では、3000万人の自国民を殺害しました。
近年にいたっても、天安門事件では、平和デモを行う学生を相手に人民解放軍を出動させ、無差別に発砲し、学生たちを戦車で轢き殺しています。
この事件では、China政府は、学生の死亡者を319人と発表しているけれど、実数は数万人の死者を出しているといわれています。
昔の話ばかりではありません。平成にはいってからも法輪功(気功術の一派)信者に対し、生きたまま臓器をくり抜くなどの拷問を行い、これまでに3000人以上が虐殺されています。
この件では、法輪功を学ぶ若い女性に対し、顔面にスタンガンの電撃を繰り返し浴びせて傷つけた写真が流出し、世界が震撼しました。
けれど、日本のメディアでは、こうした事件をまったく報道しません。

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