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赤穂浪士099

12月14日といえば、赤穂浪士討入の日です。
そういえば、先日、日心会名古屋支部の会議にお邪魔した際に、酔っぱらって調子に乗ったねずきちは、みなさんの前で「刃傷松の廊下」を歌って、ヒンシュクをかってしまいました。
愛知は、吉良方なんですよね(汗)
愛知のみなさん、ごめんなさい^^;
さて、四十七士の物語といえば、ひとりひとりにいろいろなエピソードが伝わっており、どれが実話で、どれが脚色なのか、さっぱりわからない(笑)
ただ、それらのエピソードの中で、ちょいとばかりねずきちが好きな物語を、今日はご紹介しようかと思います。
実話なのかどうかは、わかりません。ただの物語かもしれない。
でもでも、とってもよいお話です。
ご紹介するのは、忠臣蔵 赤穂浪士四十七士のひとり「矢頭右衛門七(やとうえもしち)」です。
彼は、討ち入り当時17歳。
大石主税(おおいしちから、内蔵助の息子)につぐ若さです。
はじめ大石内蔵助は、右衛門七(えもしち)を同志に加えることを許さなかったそうです。
だって、あまりに若い。
しかし、同志に加えなければ切腹もしかねないという右衛門七の真剣な姿に、内蔵助もついに折れ、父矢頭長助の代わりとして、同志に加えています。
この右衛門七(えもしち)、討ち入り後、赤穂浪士の姿を見た人たちのなかから「赤穂浪士には 女が混じっている」と噂された。それほどの美男子であったと言われています。
そんな右衛門七(えもしち)が、江戸にはいった元禄15年の秋のこと。
江戸に上った右衛門七(えもしち)は、大石瀬左衛門とともに浅草の花川戸の裏店に住んでいた。
ちかくには、聖天宮があり、そこは紅葉の名所です。
まだまだ隅田川の水が、きれいな清水であった頃です。
墨田の川面に映える浅草山の紅葉は、さぞかし見事であったことだろうと思います。
ある日のこと、右衛門七(えもしち)が歩いていると、浅草山の崖の上の方から、紅色の扇子が落ちてきた。
「はて? 紅葉のように美しい扇子(せんす)だが、誰が落としたものか・・・」
右衛門七(えもしち)は、扇子を届けようと、坂道を登ります。
すると、そこに同じくらいの年頃の、美しい少女がいた。時は元禄です。世がまさに好景気にわいた頃です。その少女は実に美しい着物を着ていた。
右衛門七(えもしち)が、「もしやこの扇子は、あなたのものでは?」、と声をかけると、その少女は、顔を真っ赤にして、「よけいなことをしないで!」と、走り去ってしまいます。
近くにいた町方のおじさんが、右衛門七(えもしち)に声をかける。
「そこなお武家さん、野暮なことをしちゃぁ、いけませんよ。これは紅葉供養って言ってね、年頃の娘さんが、良い人(夫)が見つかりますようにって、願いをこめて、ここから下の紅葉の中に紅扇を捨てるんですよ。それを拾うってなぁ、雰囲気ぶちこわし、ってことでさぁ」
ささやかな乙女の願いを、知らぬこととはいいながら邪魔してしまったことを深く恥た右衛門七(えもしち)は、こんど見かけたら、ひとこと謝ろうと、何日か浅草山を歩きます。
2~3日経ったある日、右衛門七(えもしち)は、紅葉の枝を取ろうと、背伸びをして手を伸ばしている少女を見つけます。
「どきなさい。私がとってあげる。」
抜く手も見せず枝を斬り落とした右衛門七(えもしち)に、少女は目をまるくして、
「まぁ、なんということをっ! 私は願い事を書いた短冊を枝に結び付けようとしていたのです。それを切り落とすなんて!」
田舎から出てきたばかりの武骨者の右衛門七(えもしち)には、花のお江戸の若い女性の習慣など、知るすべもなく、親切にと思ったことが、ことごとく裏目。
でも、顔を真っ赤にして、素直に詫びる右衛門七(えもしち)に、少女も、心をときめかせます。
それから何日か経ったある日、右衛門七(えもしち)は、同じ少女が川端で、たたずんでいるところに出会います。
川面には、なにやら荷物のようなものが流れている。
「なにを流しておいでなのですかな? これも風習ですか?」
おもわず尋ねた、右衛門七(えもしち)に、少女は、
「ちがうのよ。大事なお届けもののお荷物を川に落としてしまったの。お願い、拾って!!」
びっくりした右衛門七(えもしち)は、初冬の隅田川に飛び込みます。
無事に荷物は拾い上げたけれど、全身、水浸し。
近くにあった茣蓙(ゴザ)で身を覆い、家までひた走りに走って帰った。
少女は、浅草駒形の茶問屋、喜千屋嘉兵衛の娘、お千。茶問屋さんというのは、江戸時代はどこも大店(大金持ち)です。いくら若いとはいえ、ウチの娘が、お武家さまを冬の川に飛び込ませたとは、親はびっくりです。
とにかくお礼をしなくてはと、家にあった反物(たんもの)を使って、お千に、若侍さんの着物を縫わせた。
何日かかかって、右衛門七(えもしち)をようやく見つけた家の者は、右衛門七(えもしち)をお千の家に招待します。
そしてお千が縫った着物を右衛門七(えもしち)に渡そうとしたけれど、
「そのようなお気づかいは、ご無用に」と、右衛門七(えもしち)は受け取らない。
「せっかく心をこめて縫ったのに、受け取らないなんて!」
お千は泣いて、奥に引っ込んでしまいます。
そこにばあやが出てくる。
聞けば、お千は、不治の病で、もういくばくの命もないという。
そして、お千の家の茶問屋では、宇治茶を吉良家にしばしば届けていると。
「これは!」吉良家の動静を知る上で、重要な手掛かりになるかもしれない。
右衛門七(えもしち)は、お千の縫った着物を受取り、またの来訪を約束します。
若い二人です。美しい大店の娘と、女と見まごうほどの色男の右衛門七(えもしち)。
二人には恋心が芽生えます。
しかし、右衛門七(えもしち)は、討入したら、死ぬ身です。
いくらお千さんのことが好きでも、自分には彼女を幸せにすることができない。
そうわかっていながら、お千が吉良家に出入りしていると知って、自分はお千に近づき、利用しようとしている。
こんなことでいいのだろうか・・・・
しかし、お千は、聞けばあと半年の命ともいう。
お千さんも、自分も、実るはずのない命。せめてその短い間だけでも・・・
いや、しかし・・・
右衛門七(えもしち)の心は、千路に乱れます。
それでも、
あいたい、会いたい、逢いたい・・・
12月14日、朝からしんしんと雪が降る日、屋敷にいた右衛門七(えもしち)のもとに、お千がやってきます。ひどい高熱だった。
お千は、今夜、吉良家で茶会が開かれる・・・吉良上野介が在宅している・・・ことを右衛門七(えもしち)に告げた。
右衛門七(えもしち)は、高熱に侵されているお千を、籠を呼んで、家に帰すと、すぐさま討入の仲間に、「今夜」と報告をした。
討入の当夜、もともと体の弱かったお千は、雪の中を無理をして右衛門七(えもしち)に報告に走ったことがたたって、床に伏せたままになっていた。
そして、討入り。
翌朝、お千のばあやが、血相を変えて、お千の部屋に飛び込んできます。
今朝早くに、深川へお茶を届けに行くと、たいへんな騒ぎで、なんでも赤穂の浪士が吉良邸に討入ったとか。
そこへ引揚の赤穂の浪士がやってきた。
右衛門七(えもしち)さんも、いた。
ばあやを見つけた、右衛門七(えもしち)は、隊列を抜け、ひとこと、
「ばあや、昨夜はお千さんのもとに見舞いにいけませんでした。お千さんに、すまぬと、お詫びしてください」
「すまぬ」とひとこと。。。。
討入のあと、赤穂の浪士たちは、細川、松平、毛利、水野の4家に、別々に預けられた。
矢頭右衛門七は、水野家にいる。
年が明け、梅の花が咲く頃のこと。
ようやく床から起き上がれるようになったお千が、水野家を訪ねます。
水野家では、追い返そうとしたけれど、見れば、お千は、病いで、苦しそうな様子。
ひとめ右衛門七(えもしち)に会いたいというお千だけれど、浪士への面会は、幕府によって固く禁じられている。
水野は、お千に、
「梅が見たいのなら、小庭をまわって、見られたらよかろう」と話します。
「えっ?!」
「ただし、けっしてお声を出しなさるな。梅を見るだけじゃぞ」
右衛門七(えもしち)に会わせてくれる。
お千は、涙を流します。
いっしょにいたばあやは、あの勝気だったお千が、こんなにもいじらくと、また涙を流した。
水野は、その足で、浪士たちがいる部屋に向かいます。
そして右衛門七(えもしち)を見つけると、
「矢頭殿、庭に梅が咲いております。庭に降りてご覧になったら、いかがかと」
「ここからでも、梅は見えますが」
「そういわずと、さぁさぁ、庭にお出なされ。ただし、どんなに美しくても、決して声は出してはなりませぬぞ」
おかしな老人だと思いながらも、右衛門七(えもしち)は、水野の勧めにしたがって、庭に出ます。
すると、庭の境の向こうに、お千が。
二人は目と眼を見つめあいます。しかし声を出すことは禁じられている。
「右衛門七様、たったひとことでいい。いつわりの恋ではなかったと、お聞きしたかった」
「お千殿、あなたへの心は、真実と、伝えたかった」
右衛門七は、懐(ふところ)から、紅扇を取り出します。そうです。それは最初に二人が出会ったときに、お千が投げた、あの扇子です。
右衛門七(えもしち)は、梅の小枝を一枝手折ると、その小枝を紅扇に乗せて、小川に流した。
扇子は、庭の小川を流れ、お千のもとへと流れます。
ひとことも語ることは許されなかったけれど、語る必要はなかったのです。
二人の心と心が、百万言を費やすよりも雄弁に強く互いの心を知りあてていた。
そして紅扇に乗せた、梅の花が、すべてを伝えてくれた。
それからまもなく、右衛門七(えもしち)は水野の家人から、お千の死を知らされます。
おそらく、右衛門七(えもしち)の心を知りたくて、弱り切った体で無理をしてやってきたのだろうと。
その年、元禄16年2月4日、赤穂四十七士に、切腹のお沙汰が下ります。
水野邸においては、右衛門七(えもしち)が、先んじて短い命を絶った。
矢頭右衛門七(やとうえもしち)
切腹。介錯人杉源介 享年18歳。
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