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田島道治

あまり知られていない人なのだけれど、実はすごい人、というのが日本には本当に多くいると思います。
基本的に、日本人というのは、派手なパフォーマンスを嫌い、堅実に仕事をこなす地味な人が多いのですね。だから、個人は、その業績の偉大さのわりに、あまり目立たない。そしてそういうタイプの偉人というのが、日本には非常に多い。
先日ご紹介した草鹿任一海軍中将などもそういう一員で、彼などは大東亜戦争終戦時に、元海軍将兵の無罪・不起訴を勝ち取ったばかりか、海上自衛隊の設立まで当時のGHQに認めさせている。
あるいは、いつも引き合いに出すのだけれど、インド北東部で行われたインパール作戦では、約9万人の日本の将兵が参加し、そのうち約8万人が戦死・戦病等で犠牲になった。
帰還するために日本兵が歩いた道は、怪我と飢えとマラリアのために、日本の将兵の死骸が連なって後年、白骨街道とまで呼ばれた。
けれど、その街道筋にある村は、だだの1件たりとも、略奪・強盗・強姦等の被害にあっていないのです。兵隊ですからね、みんな銃を持っている。街道には、武器をもたない農民の村がある。
そこを飢えた8万の日本の敗残兵が、通ったにもかかわらず、誰一人、村を襲おうなんてしなかった。
すでに、敗軍となっており、指揮系統なんて壊滅している状態です。
それでも、略奪・暴行・強盗・強姦が、ただの1件も発生していない。
これなどは、当時の日本の将兵ひとりひとりが、自己の欲望のために動くのではなく、「自分たちはビルマやインドの独立のために戦っているのだ」、「自分たちはビルマ人やインド人の模範にならなければならないのだ」という思いがあったからだとしかいいようがありません。
自分たちは、模範とならなければならない。だから、どんなに飢えても、死んでしまっても、それでも途中の村を襲ったりしなかった。結果約4万人が、実際に飢えとマラリアで命を落としたけど、誰もが一分を通しきった。
たとえ我が身が滅びても、まっすぐに生きなきゃなならない。
まさにサムライです。
全員がそう思っていたからこそ、指揮系統の崩れた敗軍兵でありながら、悪事を働かなかった。
先日ご紹介した舩坂弘軍曹も、ジョン・ランボー顔負けのはちゃめちゃな大活躍をした人だけれど、彼はただの軍曹です。特殊部隊員として特別な訓練を受けた者でもなんでもない。
たまたま彼は玉砕した島で生き残り、その活躍が伝えられたけれど、同じような活躍は他にも数えきれないくらいあったろうと思う。
そういえば、硫黄島のすりばち山で、米軍の掲げた星条旗を引きずりおろして日章旗(日の丸)を掲げた日本兵も、いまやそれが「誰か」は、まったくわからないけれど、実に凄いと思います。
そういう種々のお話しをみると、ほんとうに日本人というのは、ひとりひとりが実に勇敢で立派だった。そのDNAを、たぶんいまの日本人もどこか心の底にもっているのだろうと思います。
いまは多くの日本人が、戦後左翼の偏向教育やメディアの汚染によって「洗脳」され、いっけん埋没しているように見えるかもしれないけれど、時が来ればみんなが目覚める。
今回ご紹介するのも、あまり知られていない人なのかもしれません。
しかし、その人は、銀行家であり、教育者であり、宮内庁長官であり、ソニーの会長でもある。そして終戦後、一部でわきあがった天皇退位論に終止符を打った人でもあります。
それは、田島道治(たじまみちじ)という方です。明治18(1885)年のお生まれです。
この人の生涯を通じて見えてくるのは、一貫して、国のために役に立ちたいという信念です。
終戦後の混乱期である昭和23(1948)年、田島63歳のとき、宮内府(現:宮内庁)長官に就任要請を受けます。
彼は、何度も固辞するのですが、最終的にこの仕事を引き受ける。
天皇制の存続そのものが問われた時期の宮内庁長官です。責任は重大なものになる。
このとき田島を長官に指名した芦田内閣総理大臣は、日記に
「田島道治君に断られては行き詰まる。別れるとき、目に涙がいっぱい出た」と書いています。それだけ重大な任務だった。
首相からの涙の説得に田島は就任を引き受けたけれど、それは死をも覚悟の心境だったそうです。
田島道治という人は、当時、非常に厳正な人として知られた人でした。
もともと三河(愛知県東部)の500年続く造り酒屋の名家の生まれ。
東大を卒業し、後藤新平や新渡戸稲造に非常に可愛がられ、昭和金融恐慌のときは、いまでいう金融機関の不良債権処理機構(ブリッジバンク)である昭和銀行頭取として辣腕をふるった。
この昭和銀行とというのはすさまじい銀行で、田島は若干42歳で頭取に就任するのだけれど、昭和恐慌や関東大震災によって生まれた莫大な金融機関の不良債権を、資本金と総額1億円の日銀特融だけ処理し、破綻銀行の役員に対しては私財提供さえも求め、税金を1円も使用しないで不良債権を見事に片づけてしまった。見事な手腕です。
また田島は、教育にも非常に熱心で、私財を投じて東大の学生寮を作り、寮で毎週欠かさず講義を続け国家のための人材づくりを行っている。
この寮は、B29の東京空襲で焼失するのだけれど、田島は再び私費で、寮を作り、学生たちに提供しています。
その田島自身は、当初、昭和天皇は退位すべきと考えていたのだそうです。
ところが、宮内庁長官となり、昭和天皇に身近に接して、その公正無比な人柄に触れると、絶対に、絶対に、絶対に、日本は昭和天皇のもとで復興を目指すべきという信念を持ちます。
田島が語ったエピソードに、次のような話があります。
台風が東京に上陸するという予想に反し、関西に上陸した。
田島が陛下に、「東京は免れまして結構でございました」と奏上すると、陛下は、
「関西に上がっているじゃないか」とおっしゃられた。
陛下は、自らのことよりも、戦後間もないバラック建てばかりの関西の人々の被害を心配されていたのです。
そういう陛下の日ごろからのご姿勢に、田島は心底、まいった、と思った。
これほどの人は、いままで誰一人、みたことがない。
田島は、田園調布や成城に持っていた土地を全部売り払い、宮内庁長官としての交際費に当てます。自分の給料だけではとても費用が足りなかったし、官の自分がケチな振る舞いをして、陛下に恥をかかせるわけにいかないと考えてのことでした。
田島は、戦後の動乱期に、約5年間の宮内庁長官を勤めます。と
そして天皇の存続はもとより、昭和天皇の退位論にも終止符を打った。
それは田島の無私の尽力によるものだったといわれています。
今日の「開かれた皇室」という言葉も、田島が宮内庁長官時代に生まれた言葉です。
ある皇室関係者は、田島を「あの方は、恩人中の恩人です」と語っている。
他にも田島は、生まれたての小さなバラック小屋の会社であったソニーの役員を引き受けています。そして自費で若き日の井深大や盛田昭夫を支え続けた。
彼らの熱気に魅力を感じ、日本の未来を託しうる人材と考えていたからだといいます。
田島がいなかったら、いまのソニーはなかった。
田島は、8歳のときに、母をなくしています。
子供心に、母の死がどれほどつらかったことか。
田島は、心に生まれた隙間を、必死で勉強に打ち込むことで埋め合わせます。
勉強がつらくなると、母の笑顔を思い出した。
そしてまた勉強に打ち込んだ。
小学校を卒業した道治は、愛知県立第一中学校に進学します。
名古屋の最難関校であり超名門校です。
ところが田島は、このままではダメだ。自分をもっと鍛えたいと切望する。
そして父親に、東京の名門校の府立一中(現在の日比谷高校)に転校したいと申し出ます。15歳のときです。
要するに名古屋の名門校を中退して、単身で上京するというのです。
父は猛反対した。
しかし田島は「卒業したら必ず名古屋に帰るから」父を堂々と説得する。
そして一高(現:東大教養部)に入学するのだけど、ちょうどこのころ、一高に新渡戸稲造博士が校長に赴任した。
教育に熱心に燃える新渡戸博士は、毎週1回、学生たちを自宅に招き、談笑をしたのだそうでうす。学生たちは、新渡戸博士の人格と教養に直接触れることで、ものすごく良い勉強をした。
こうした人間的なお付き合いというのは、実は、日本では、江戸時代からの伝統です。
江戸時代、たとえば武家では、家柄や家督による身分の上下は確かに存在した。
しかし、たとえばご家老といえば、すごくエライ人(いまでいったら副社長)だけれど、たとえば囲碁に関しては、一藩士(平社員)の方が、先生だったりする。
ご家老が正面玄関から裃(かみしも)を着て正装してやってこられたときは、もちろん「家老」としての訪問です。家の者は土下座して出迎える。オフィシャルな訪問だからです。
ところが、同じご家老が「着流し姿」で、勝手口から「よぅ!」とやってきたときは、個人としての訪問です。この場合は、おかみさんが台所から手を拭きながら出てきて「あら、いらっしゃい」とやっても、まったく不都合はない。
身分ではなく、個人の、人としてのお付き合いだからです。
身分は身分。しかし同時に人としての付き合いに垣根はない、というのが、江戸日本の姿勢(考え方)です。だから新渡戸校長も、平服姿で学生たちとつきあった。
日ごろは厳格な校長でも、自宅では、ふつうのおじさん、人生の先輩として、学生たちと接し、談笑したのです。
こうした人間的なふれあいのなかで、まだ学生だった田島は、新渡戸博士を心から敬愛し、尊敬します。
ある日、田島は思い切った行動をとります。
新渡戸博士に頼み込み、新渡戸の家に書生として住み込んでしまう。
かつて父の反対を押し切って東京に出たときと同じです。
良いと思うことは迷いなく果敢に実行する。
こうした一途な性格は、田島道治の生涯を通じてみられるものです。
新渡戸家に住み込んだ道治は、新渡戸から多くのことを学びます。
新渡戸は常日頃から
「人が世に生まれた大目的は、世のため人のために尽くすことにある」と語った。
道治はそれを肝に銘じます。
「よしっ。自分も一生懸命努力して成長し、世のため人のために尽くそう!」
東大法科を卒業した道治は、明治44(1911)年、父親との約束通り、名古屋に戻り、地元の愛知銀行(のちの東海銀行、現在の三菱東京UFJ銀行)に入行します。
銀行に勤めて5年たった頃、後藤新平が鉄道員総裁(現国道交通相大臣)になります。
後藤新平は、「一にも人、二にも人」という信念を持つ人です。人材発掘にものすごい情熱を燃やした。
その後藤に、新渡戸稲造が、田島を秘書にと推薦します。
新渡戸博士は、若い田島のために、わざわざ名古屋まででかけ、秘書官就任を渋る父の五郎作を、みずから説得しています。
後藤新平のもとで、田島は秘書として2年間勤めます。そして有能な田島は後藤新平にものすごくかわいがられる。
後藤新平は、内閣総辞職によって大臣職を辞すると、新渡戸を誘って米国視察旅行を計画します。ちょうど第一次世界大戦が終了し、欧米が大きく変わろうとしていた大正2(1919)年のことです。
この視察旅行に、後藤は元秘書だった田島道治ら優秀な若者を同行した。
そして行く先々で若者たちに意見を言わせ、彼ら若者との議論を心行くまで楽しんだ。
旅が4ヶ月目に入ろうとしたとき、新渡戸が国際連盟の事務局次長に任命されたという朗報が舞い込みます。
田島にとって初めての海外旅行の最中のことです。
恩師であり、いま目の前にいる新渡戸が国際舞台の場で、世界平和の主役の一人として登場しようというのです。田島は、このとき身震いするような高揚感を覚えたといいます。
帰国後、田島は愛知銀行に戻り、弱冠35歳で常務取締役に就任します。
ところが金融機関は、この頃、たいへんな事態に巻き込まれる。
ひとつは第一次世界大戦後の世界的経済環境の激変によってもたらされた世界的大不況。
そして昭和金融恐慌(1927)。もうひとつが関東大震災(1923)。
第一次世界大戦の物資の補給で、世界的好景気を迎えたのもつかの間、終戦とともに世界の経済は急転して大不況の波が襲ったのです。
企業倒産が相次ぎ、金融機関の不良債権が増大、街に失業者があふれ、農村部の若い女性は女郎屋に売られた。そこに関東大震災が起こる。
震災で、企業間決済手形の不払いが続出ます。
やむをえず政府は、被災地に関わる手形を、日銀で再割引や、モラトリアム(支払い猶予)を実施した。ところがこれが後に金融機関に莫大な不良債権になる。
このことは、現代ともよく似ていて、リーマンショックによって世界同時不況となっているところに、3年間の支払い猶予なんていうモラトリアムを政府が実施。
これが貸し渋りや貸しはがしにつながって、不況がますます深刻化したところに、関東に大地震が起り、支払い不能が続出した・・・そんな情況です。これが実際に昭和のはじめに起こった。
この昭和金融恐慌の金融破綻の収拾策として、政府は、昭和2(1927)年に、昭和銀行を設立します。
昭和銀行というのは、いまでいうところのブリッジ・バンクで、破綻した銀行の不良債権を昭和銀行が引き取って、預金者と取引先を救済しようという銀行です。
ここから先の田島の半生は、冒頭述べたとおりです。
昭和43(1968)年12月、田島は83歳で田島は永眠します。
生前、田島は次のように語っていたそうです。
「自分の力で少しでも世の中が良くなったことに、自分が若干の奉仕をしたという喜びで世を去りたい」
国家、社会の役に立ちたいという生き方を生涯貫き、自分の役割を忠実に果す。
名を残そうという考えからでもない。金儲けしようという魂胆でもない。
ただ日本という国を思う、多くの人の役に立ちたいと思う真摯な無私の気持ち。
そういう気持ちを持った多くの先人達がいてくれたおかげで、いまの日本があります。
最近では、よく「自分のために生きろ」と教える。
勉強も「自分のため」。仕事も「自分のため」。稽古と学ぶも「自分のため」。
でも、思うのです。
人が人として、自分のもっている力以上の大きな力を発揮できるのは、決して「自分ひとりのため」などではなく、多くの人のため、社会のため、誰かのためって思う時なんじゃないかって。
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