
トルキスタンとか、カザフスタンとかいいますが、その「スタン」というのは、ペルシャ語で「国」という意味の言葉です。
その「スタン」という名前がつく国の中に、ウズベキスタンという国があります。
古代からシルクロードの中継地として発展したオアシス都市が栄えたところで、13世紀にはモンゴル帝国に征服されるけれど、14世紀になるとティムール王朝が興って、中央アジアから西アジアに至る広大な帝国を築き上げた歴史を持ちます。
そのウズベキスタンの首都都タシケント市に“国立ナポイ劇場”(写真)があります。
実はこの建物は、日本人が造った。
終戦後間もないころです。
シベリアに抑留された日本人65万人のうち、2万5千人が、このタシケント市内の13箇所の収容所に入れられます。
シベリア抑留者というのは、ただソ連によって強制連行され、抑留させられた、というわけではありません。
シベリアに連行された日本人は、旧満鉄の職員や技術者、関東軍の工兵たちなどです。
要するに技術者集団でもあった。
ソ連は、ヤルタ協定を一方的に破棄して対日参戦しただけでなく、満洲や朝鮮半島、樺太などを一方的に占有し、日本軍から奪った武器弾薬兵器は、シナの八路軍(中国共産党)や、北朝鮮金日成らに無料同然で売り渡し、日本人技術者たちを強制連行してソ連のインフラ整備のために無料で使役したのです。
65万人の技術者集団です。
彼らを単に抑留するだけなら、食費やら施設の維持費等で、建国したてのソ連は大赤字となります。
65万人に給料を払うなら、たとえば今の相場で月30万円の給料を出すとなれば、それだけで月に2千億円、年間2兆4千億円の費用がかかる。
それを給料無料で、ろくな食事も与えず、彼ら日本人の持つ高い技術と能力、旧満州にあった機械設備をまるごと接取して、ソ連のシベリア開発のために使役した。
道路敷設、水力発電施設の建設、鉄道施設の充実強化、森林伐採、農場経営、建物建築等々。
莫大な国費を要するそれら国内インフラの整備事業を、拉致した日本人65万人を使ってソ連全土で展開した。
ちなみにいまでもロシアに残る社会インフラで、ちゃんと稼動している施設は、ほぼ日本人抑留者が造ったか、ソ連以前の帝政ロシア時代の建造物かどちらかです。
旧ソ連時代にできたものは、あまり多くない。
要するにソ連は、人だけでなく、モノと技術を一緒にソ連に運んだのです。
そして日本人を奴隷のように使役し、モスクワの町やらイルクーツクの街並み、カザフやウズベキの街や道路、発電所、建築物等を作らせた。
使役させられた日本人たちの様子がどうであったのかは、山崎豊子の小説「不毛地帯」に詳しく紹介されています。
裸にされて並ばせられると、すぐ前に立っている者の肛門まで見えた。ろくな食事も与えられず、全員がそこまでガリガリにやせ細っていた話、モスクワでの建設工事の最中、あまりの労苦に耐えかねた日本人のひとりが、クレーンの先端まで駆け上がって「天皇陛下万歳!」と叫んで飛び降り自殺した話等々、涙をさそう逸話が数多く紹介されている。

ウズベキスタンのタケシント市に抑留された2万5千人の日本人達も、同じです。
運河や炭鉱などの建設や、発電所、学校などの公共施設の建築などの強制労働につかされ、過酷な気候条件と厳しい収容所生活で、栄養失調や病気、事故など813人の日本人がこの地で亡くなった。
しかし、彼らが造った道路や発電所などの施設は、いまでもウズベキスタンの重要な社会インフラとなっている。
それどころか、国立ナポイ劇場の建物などは、いまやウズベキスタンの人たちの誇りとさえなっている。
ウズベキスタンの市民たちは、劇場が建設された当時のことをよく覚えているといいます。
日本人たちが、捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧な仕事をするのか、真面目に働くのか不思議がったといいます。
冒頭の写真のナポイ劇場は、約2年の月日をかけて昭和23(1948)年に完成したものです。
実は、その後、タシケント市では、2度、大地震が起こった。
市内の建造物は、なんと3分の2が倒壊しています。
ところが、この大地震に、ナポイ劇場はビクともしなかった。
劇場を眺めるとき、ウズベク人たちは、
「戦いに敗れても日本人は誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。素晴らしい民族だ」と今も語り継いでいる。
同じ抑留者でも、ドイツ人たちは、ロシア兵に反抗もするし、自分たちの権利を主張した。ロシア兵たちもドイツ人たちにたいしては、あるていど大目に見ていたといいます。
日本人はイエローなので、差別された。ひどい扱いを受けた。
それでも日本人たちは、威張らず、文句も言わず、黙々と作業をした。
その姿に、市内の作業現場ではタシケント市民は、ソ連と戦争をした日本人を、かえって尊敬と畏敬感を持ったといいます。
ナポイ劇場の建造は、500人の日本人抑留者が担当したそうです。
そのうち60人が、建築途中で亡くなった。
どれだけひどい環境下にあったか、その数字だけをみてもあきらかであろうと思います。
1996年、ソ連崩壊後、独立したウズベキスタンで、大統領のカリモフ氏は、壮麗なナポイ劇場に、日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げました。
プレートには、ウズベク語、日本語、英語でこう書かれています。
「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

1999年7月に、駐ウズベキスタン特命全権大使となった中山恭子氏は、ウズベク在任中に、いまも国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会ったそうです。
その元監督は、まじめに、そして懸命に汗を流していた日本兵抑留者たちの思い出を涙ながらに語ったといいます。
苛酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせずまじめに仕上げてしまう日本人。
いまでもウズベキスタンの母たちは子供に「日本人のようになりなさい」と教えているのだそうです。
ウズベキの人たちは、当時抑留されていた日本人たちの姿を見て、
「日本人の捕虜は正々堂々としていた。
ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに対して、彼らは戦いに敗れても日本のサムライの精神をもっていた。
強制労働でも粛々と作業につく姿を見て、我々市民は彼らに何度か食料を運んだ」というそうです。
タケシント市にある日本人墓地は、元抑留者たちの募金活動やウズベキスタン政府の協力によって整備され、日本から送られたサクラの苗木1300本も植樹されました。
過酷な環境の中で祖国帰還を夢見ながらも、まじめに働き、ウズベキスタンのインフラを残した日本人抑留者。
彼らが造った道路や工場は今でも使用されています。
どんなときでも勤勉にまじめに生きた私たちの父祖の日本人。
戦後の日本人は、そういう父祖たちの生きた時代の日本を、あまりにも矮小化して見てはいないだろうか。
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