
ヤマハといえば、いわずとしれた楽器メーカーです。
いまでは自動車のエンジンやバイク、クルーザーなども作っている。
ところで、ヤマハというのは何の略でしょう?
山葉という称号は、創業者である山葉寅楠(やまはとらくす)の名字からとったものです。
寅楠という名前は、南方熊楠(みなかたくまくす、植物学・民俗学者)や、横井小楠(よこいしょうなん、儒学者・政治家)に習い、楠木正成にならって付けられた名前なのだそうです。
ヤマハの創業時の名前は「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうじょ)」です。
「風琴(ふうきん)」というのは、オルガンのことです。
“風を送って音を出す琴”という意味でしょうか。
創業者の山葉寅楠は、嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。
父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた人です。
山葉寅楠は、宮本武蔵のファンでもあったようです。16歳で二天一流の修行に出たそうです。
しかし明治維新で家が没落。
山葉寅楠は、二十歳のときに大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械修理を学びます。
ところが肝心の仕事が、ない。
彼は技術者として職を求めて、全国各地を転々とします。
そんなとき山葉は、友人から静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらいます。明治17(1884)年、寅楠35歳のときのことです。
その頃、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられていたのです。
浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)でも唱歌のためのオルガンを輸入した。
オルガンはもちろん外国製です。めちゃめちゃ高価です。
そんな高価な風琴(オルガン)を、小学校が買った。このオルガンの話は、浜松だけでなく静岡県じゅうに広まり、各地から大勢の人が見学におとずれたそうです。
ところが、このオルガン、すぐに故障してしまった・・・。
修理したいのだけれど、オルガンは外国製です。部品もなければ修理工もいない。
しかも貴重品です。万一修理に失敗でもしたら、それこそとりかえしがつかない。
困った小学校は、ある日、浜松県立病院に精密機器の修理工がいるという話を聞きつけます。そして、山葉寅楠のもとに、オルガンの修理の依頼がきた。
時計や医療器具修理のできる山葉寅楠なら直せるだろうというわけです。
いまにしてみれば、かなり乱暴な話だけれど、当時のひとたちにしてみれば、まさに真剣そのものです。
山葉寅楠にとっても、そんな見たこともない貴重なオルガンを、どうやって直すのか不安でいっぱいです。
まわりの人が心配そうに見守る中、寅楠は、オルガンを点検します。そして内部のバネが二本壊れているだけだとすぐに見抜いた。
そしておもしろいことに、寅楠は、「これならバネだけでなく、オルガンそのものも俺にもつくれそうだ」と思い立ちます。
「アメリカ製のオルガンは45円もする。自分なら3円ぐらいでつくることができる!」
明治10年代の白米10キロの値段が50銭です。いまだと5000円くらいかも。てことは、感覚的にはオルガン一台4500万円のところを、30万円で作れる、と考えた、というわけです。
寅楠は決心します。
「将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる」。
このあたりの寅楠の考え方は、非常におもしろいと思います。
オルガンの市場性に着目するだけでなく、それが「国益になる」と考えたわけです。
一介の職人さんの意識の中にも、自分の行動を「お国のために」と考えるという精神構造があった。
時は明治の始めです。
よく「お国のため、という思考は、大東亜戦争直前の軍国主義教育のたまものである」という人がいます。しかし寅楠は、江戸時代に教育を受けた人です。つまり日本人の心には、江戸の昔からお国のため、公益に尽くすという考え方があった。
さて、翌日から寅楠は、来る日も来る日もオルガンの内部を調べます。修理すべきバネだけではありません。いろいろな部分を細かく図面に書き写した。
約一ヵ月が経って、ようやく何十枚もの図面を書き終えた寅楠は、壊れたバネの修理に取りかかりった。バネそのものは、冶金術が発達していた日本では、そんなにむつかしいことではない。そして、見事にオルガンを直してしまった。
「山葉さん、すばらしい。ありがとう!」
「いいえ、校長先生。私のほうこそお礼をいいたいくらいです。おかげでオルガンを知ることができたのですから」
山葉寅楠も、内心、ニッコリです。
しかし寅楠には、オルガンをつくるための資金がありません。
あちこち尋ね歩いて、協力を求めますが、多くの人が「おまえは気でも狂ったか」というなか、5日ほどたったある日、寅楠は飾り職人である小杉屋の河合喜三郎をたずねます。そして「力を貸してほしい」と頼み込みます。
河合喜三郎は寅楠の熱意と腕にかけてみよう!と決心します。
こうして、翌日から河合の小杉屋の仕事場を借りてオルガンづくりが始まった。
とりあえず資金と場所は確保できたけれど、二人には満足な材料もなければ道具もない。
あるのは情熱だけです。
寅楠は朝4時から夜中の2時まで、ほとんど徹夜でひとつひとつ工夫しながら部品を作っていった。
そして二ヵ月かかって、やっとオルガンの第一号を完成させます。
寅楠は、真っ先に元城小学校へ運び、唱歌の先生に頼んで弾いてもらいます。
しかし「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」と言われてしまいます。
そうです。調律がなってないのです。
しかしドレミの音階そのものが、まだ世に伝わっていない時代です。
寅楠には、なにがどうおかしいのかがさっぱりわからない。
そこで寅楠は、めげずに、今度はおなじく浜松市内にある静岡師範学校(今の静岡大学教育学部)へオルガンを持っていきます。だが、結果は同じです。音がおかしいと言われた。
音の何がどうおかしいのか。河合と寅楠にも、肝心なところがさっぱりわかりません。
どうすればいいのか。。。。
こりゃもっと偉い先生に聞いてみなきゃわからんかもしれん。
二人は、作ったオルガンを東京の音楽家に見てもらおうと話し合います。
それには、音楽取調所(現東京芸術大学)がいいだろうと話し合った。
しかし、音楽取調所で、いったい誰に会えばいいのか。
会うためには、どうすればいいのか。それすらさっぱりわからない。
電話なんてものはありません。もちろん携帯もない。104もない。
直接行ったところで、そのエライ先生が会ってくれるかどうかもわかりません。
しかし、とにかく行くしかないだろう。。。
二人は、そう結論付けると、天秤棒にオルガンをぶらさげて、浜松から東京までかついで運ぶことにした。
かつぐといっても、100kg近い重量のあるオルガンです。
まず重たい。道のりは東海道を270kmです。
雨の日は動けない。
風が吹いたらあおられる。
箱根の山越えは、ずっと坂道の難所です。
いったい何日かかったか。。。

ようやく音楽取調所に着いた二人は、オルガンを教授たちに見せた。
教授たちはびっくりします。
国産でオルガンをつくってしまったことにも驚いた。
そのオルガンをかついできたことにも驚いた。
そして音が外れていることにも驚いた。
音程が狂っている。音階もおかしい。これでは楽器として使えるものではない。
西洋音楽を指導していた所長の伊沢修二は、「調律が不正解なんだ。あと一歩です。君たち音楽を学習していきなさい」と言った。
伊沢所長は彼らのために、親切に宿泊所を提供し、音楽取調所で聴講生となることを許可してくれます。
寅楠は、調律、音楽理論を必死で学びます。
1ヶ月後、浜松に帰った寅楠は、先に帰っていた河合喜三郎と協力して、すぐさま2台目のオルガンの製造にとりかかります。
しかし、途中で、資金が底をついてしまいます。
河合の妻は、親戚中をかけまわって借金した。
河合の妻の衣服も、嫁入り道具の服から普段着まで、ぜんぶ質屋に入ってしまった。
残った1着は、着ている1着だけです。それを洗濯するときは、もうまる裸になるしかない。
親戚は、お前たち気でも狂ったのかと猛反対をした。
しかし、寅楠と喜三郎は「今度こそ立派なオルガンをつくるんだ!」「日本の子供たちに音楽を届けるんだ」と心に念じて努力に努力を重ねた。
そして、二ヵ月。
とうとう第二号のオルガンが完成した。
こんどは大丈夫だ。しっかりと調律もした。これならきっと認めてもらえる。
二人は、そううなづきあうと、天秤棒にオルガンをぶら下げ、ふたたび270kmの道のりを歩いて東京の音楽取調所に向かった。

再び、箱根の山を越えたオルガンは、伊沢所長の前ですばらしい音色を響かせます。
「山葉さん、すばらしい! よくやりましたね。これなら外国製に負けない見事なオルガンです。これで、全国の小学校へ国産のオルガンを置くことができますよ」
やっとできた! 認められた!
寅楠と河合は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
この時代の男は、「男が泣くのは一生に1度だ」と教わってきた世代(時代)です。
その男が、だいの大人のおやじが、うれし涙を流した。
山葉寅楠はこのオルガンを、国産第1号オルガンとして、そのまま音楽取調所寄贈してしまいます。
「伊沢所長のおかげで完成したオルガンです。どうか使ってください。」というわけです。
気前がよくてオルガンを寄贈したとかそういう話ではありません。
それだけうれしかった。だからそのうれしさをカタチにしただけのことです。
これを喜んだ伊沢所長は、二人が造ったオルガンを、「国産オルガン製造成功!」と、あちこちに語ります。いわば東京芸術大学学長のお墨付き・・・どころが学長の宣伝です。
ニュースは、口コミで広がり、次第にオルガン製造の注文も来るようになった。
注文第1号は、静岡県から5台です。
その後も政府の方針によって文部省唱歌が普及したため、オルガンの需要はうなぎ登りに増えた。
山葉寅楠と河合は、「山葉風琴製造所」の看板を掲げ、本格的にオルガンの製造にとりかかるのだけれど、わずか1年後には従業員は100名を超え、ロンドンにまで輸出するようになった。
二人の努力と周囲の善意が実を結んだのです。日本はそういう社会だった。
明治22(1889)年、山葉は、東京や大阪の楽器商社と協力して個人商店だった山葉琴風製造所を、「日本楽器製造株式会社」に改組します。
そしてこの頃から、山葉寅楠はピアノの製造、国産化を目指すようになる。
伊沢修二所長の紹介で文部省嘱託となった寅楠は、アメリカに渡り、ピアノ工場を見学し、部品を買い付けた。
帰国した寅楠は、国産ピアノ第1号をつくるべく、会社の総力をあげてピアノの製造にとりかかります。
ピアノの部品には、アメリカで買い付けたものを使用したけれど、ピアノの生命といわれるアクション(響板)だけは日本で開発したものを使用しています。
天才がいたのです。響板の製造は、河合の親戚の河合小市が造った。小市は、後に「河合楽器」を創業したひとだけれど、このとき小市、わずか11歳です。
山葉寅楠は明治33(1900)年にはアップライトピアノ、明治35年にはグランドピアノの製造にも成功します。そして山葉のピアノとオルガンは、アメリカのセントルイス万国博覧会で名誉大牌賞を受賞する。
オルガン、ピアノの量産化で山葉寅楠は「日本の楽器王」と呼ばれるようになりました。
山葉寅楠の死後、「日本楽器製造株式会社」は「ヤマハ株式会社」となり世界一の楽器製造を誇る企業へと成長した。
東海道を、天秤棒で担いで歩いて運んだ山葉寅楠と河合喜三郎。
彼ら二人の努力が、全国の小学校にオルガンを普及させ、文部省唱歌を全国に広めた。
老人ホームに行くと、ボケ老人でも、文部省唱歌をみんなで歌うと、目を輝かせて、これを歌う。歌っているおじいちゃん、おばあちゃんの顔は、そのときばかりは尋常小学校生の顔になっています。
歌は、彼らの少年少女時代の共通の思い出でもあります。
しかし最近では、学校で昔からある文部省唱歌を教えなくなったといいます。
子供たちは好きな歌を歌えば良いというのです。
しかし本当にそれで良いのでしょうか。
子供たちから唱歌を奪うということは、子供たちから彼らの未来における共通の思い出を奪うことです。その思い出は、その子の思い出であると同時に、同じ世代を共有する共通の思い出でもある。
人はひとりで生きているわけではないのです。
人と人とのかかわりの中で、みんなが生きている。
何かを一緒にやった仲間というのは、生涯の友になります。
知らないおじいさん、おばあさんどうしでも、同じ文部省唱歌を歌った思い出が共有されることは、共通の友に出会うということでもある。
逆に子供時代の歌が、ひとりひとりみんなバラバラとなると、それはなるほど個性化というものかもしれないけれど、共通の思い出を失うことにもなる。ほんとうにそれでいいのだろうか、と思うのです。
だから、ちょっとだけ、ねずきちは言ってみたいのです。
子供たちから文部省唱歌を奪う日教組教師は、全員、天秤棒でオルガンを担いで270kmを歩け!なんてね^^v
田舎の山の中の小学校にも、古いオルガンが置いてあります。
かつて、そのオルガンを必死で作った人がいて、それをその小学校まで歩いて運んだおじさんたちがいる。トラックなんてなかった時代です。みんな担いで運んだ。
そうやって子供たちに歌が届けられました。
そして同じ国の同じ国民として、みんなで共通の思い出を刻んでいった。
その先人たちの思いや努力、歴史というものを、個人主義とか個性化とかいう能書きひとつで、ぜんぶぶち壊しにするということが、本当に良いことといえるのか。ねずきちにはよくわかりません。
ただひとつ思えるのは、子供たちから共通の思い出を奪う者、世代を超えた思い出を奪う者は、もはや教育者の名に値しない。そんな気がします。
すくなくとも、そうやって造ったり、運んだりしてくれた先人たちに対する感謝の気持ちは、ぜったいに忘れてはならないことだし、伝えるべきことだと思うのです。
オルガン担いで270kmはすごいなぁと思った方
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