
東京の目黒区青葉台1丁目に、上村坂という坂道があります。
山手通りの一商高交差点から少し曲がりながら下る坂道です。
坂下は比較的緩やかですが、坂上になるほど傾斜が急になります。
なぜこの坂に上村坂という名前がついたかというと、戦前、この上、つまり山手通りの交差点あたりに、海軍大将上村彦之丞(かみむらひこのじょう)の家があったからです。
上村彦之丞は、実は日本武士道の華として、世界的に広く知られている人物です。
日露戦争の頃の話です。
上村艦隊は、ロシアのウラジオ艦隊と交戦し、1艦を撃沈、2艦に壊滅的打撃を与えます。
このとき撃沈されたロシアの巡洋艦リューリックは、沈没するときに乗組員の将兵達が船から飛び降り、海上に漂った。
海上に漂う敵の将兵626名。
敵艦のリューリックは、日本の海上輸送を妨げ、十数隻もの船を沈めて、一般人を含む多くの日本人の命を奪った仇敵です。
戦艦沈没時というのは普通、乗員の95%は、沈没時に海に避難します。助かるのです。
現代の人なら、戦闘が終わったら、敵の兵であれ、人命救助はあたりまえと思うと思います。
しかし当時、ウラジオ艦隊に沈められた日本船で、ロシア船に救助された者は誰もいません。ほぼ全員の日本人が、海上で殺された。
時代は少し異なりますが、皆様御存じ戦艦大和も、沈没したときには乗員3,332名のうち、約3000名が海に飛び込んで漂流した。飛び込んだ日本の将兵には武器はありません。つまり攻撃力は皆無だった。
しかし雲霞のごとく群がった米軍は、海に漂流する戦艦大和の乗員に対し、容赦なく飛行機や艦船からの機銃掃射を加えた。その結果、生還したものは、わずか269です。
黄色人種の命など、虫けらと同じ・・・そういう時代だったのです。
いま、上村の目の前には、ロシア巡洋艦リューリックの乗員が、波間に浮かんでいます。
そして戦闘は終わっています。
上村は、迷わず全艦に命令します。
「溺(おぼ)れる者をことごとく救助せよ」
さらに上村は、部下が敵兵に復讐の念をもって虐待行為をしないよう、各艦に「捕虜を厚遇せよ」と重ねて命じた。
日本艦隊は、漂流者全員をひとり残らず救助した。
さらに上村は、救助したロシア兵に対し、日本軍が暴行を働いていないか、参謀の佐藤鉄太郎中佐に、見に行かせます。
佐藤参謀長が見に行くと、負傷して横たわる敵兵に対して水兵が、真夏の猛暑の中で、ロシア兵の周りを取り囲み、手に扇を開いてあおいでやっていた。
水兵は佐藤に言った。
「こいつらは憎い奴ですが、こうなるとかわいそうです」
佐藤が上村に報告すると、上村は「それはよかった。それで安心」と喜んだそうです。
この物語は、当時、全世界で絶賛され、いまでも海軍軍人の手本、フェアプレイ精神の手本として各国海軍の教本に掲載されています。
世に言う「蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん)」です。
蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん)について、すこし背景を述べたいと思います。
日露戦争が始まったころ、ウラジオストクを母港とするロシア・ウラジオストクには、装甲巡洋艦ロシア、グロモボイ、リューリックの3隻からなる艦隊がいました。
この艦隊は、旅順にいたロシア太平洋艦隊とは別行動を取り、日本の商船や輸送船を狙って活発な海上破壊活動展開していた。
日本海軍は、上村中将を司令官とする第二艦隊を遊撃部隊としてウラジオストク方面に展開させ、ロシア艦隊の捜索を行い、撃破を図ろうとした。
明治37(1904)年6月15日には、陸軍兵士を輸送中の常陸丸、佐渡丸が撃沈され、須知源二郎中佐以下の近衛後備歩兵第1連隊等の兵員千名余りが戦死しています(常陸丸事件)。
さらに7月にはウラジオストク艦隊は東京湾の沖に出現した。
ウラジオストク艦隊の海上破壊活動は、日本の帝国議会でも問題になります。
上村中将が濃霧のためウラジオストク艦隊を見失ったと東京の大本営に打電したところ、ある議員は
「濃霧、濃霧、逆さに読めば無能なり」と野次った。
民衆は怒り狂って上村の自宅へ投石し、上村を露探(ろたん=ロシアのスパイ)呼ばわりした。
この事に部下たちが憤慨すると、上村は「ウチの女房は度胸が据わっているから大丈夫」と笑って取り合わず、批判や中傷にじっと耐えたと言います。
上村という人物は、薩摩藩出身で幕末の戊辰戦争にも従軍した男です。耐える上村の胸の内はいかばかりだったことでしょう。
上村という男は、明治4年には海軍兵学寮に入り、在学中に台湾征伐にも出征し、日清戦争も戦ってきた勇士です。
無類の酒好きで豪傑。先日ご紹介した山本権兵衛が艦長、上村が副艦長をしていた頃に、こんなエピソードがあります。
陸上で大酒を飲んで戻ってきた上村が艦内で暴れ出した。
山本権兵衛は静かに上村に話しかけ、抱きかかえるようにして甲板に連れていったそうです。
この様子を目撃した少佐が心配してあとをつけると、権兵衛は上村の胸ぐらをつかんで殴りつけていた。権兵衛といえば相撲取りを目指したこともある剛腕の男です。
明治21年、ロシアの戦艦ドミトリー・ドンスコイが修理のために横須賀のドックに入ったとき、日本海軍が地元の水交社を宿泊所にあてたのだが、日本など眼中にないロシア水兵たちは水交社でも我が物顔に振る舞っていた。
上村は水交社に行き、ロシア水兵とビリヤードを始めた。
すると一人のロシア士官が「君は何という名前だ」と尋ねてきた。
上村は「大和艦副長 海軍大尉 上村彦之丞だ」と答えるのだけれど、もとよりロシア兵には、日本語など分からない。
ロシア士官が再び名前を聞きなおすと、上村は「大和艦副長 海軍大尉 上村彦之丞である!」と大声で怒鳴った。
その様子を見てロシア士官がクスクスと笑った。
上村は、「人の名前を聞いておきながら笑うとは、無礼千万!」と怒鳴ると、手にしたキューでロシア士官を殴り倒した。
なにせ幼いころから薩摩示現流で学んだ打ち込みです。
キューは、真っ二つに折れ、ロシア士官は、一撃で倒れ込んだ。
激怒した他のロシア水兵が全員で上村に襲いかかってくると、上村は、ビリヤード台に上って天井のランプを引き外して投げつけ、さらに椅子を振り回して大暴れした。
ロシア水兵全員は、上村の迫力に押されて逃げていった。
また、日清戦争のあと渡英した折には、英国アームストロング社のナンバーワンのノーブルを怒鳴りつけている。
当時、日本は英国のアームストロング社に、軍艦「千代田」を発注していたのです。
ところがアームストロング社は日本を見くびって、千代田用に発注された12センチ砲を無断で南阿戦争中の英軍に振り分けてしまった。
これに怒った上村は、ノーブルを呼びつけて抗議した。
しかしノーブルは英国造船界の大物です。上村など眼中にない。平然とトボケている。
通訳もノーブルの影響力を恐れて、上村の発言を笑顔で恐る恐る訳していた。
上村は、「君じゃ話にならん。ほかの通訳を呼べ!」と通訳の交代を命じます。
そして代わってやってきた通訳に対し、
「通訳はただ訳せばいいのじゃない。怒った時は怒ったように、叱った時は叱ったように、すべて本人の態度と同じようにせよ!」と怒鳴りつけ、ノーブルを徹底的に叱り飛ばした。
その堂々とした姿にノーブルは、日本という国を見直し、これを機に、アームストロング造船所の日本に対する態度は一変したといいます。
その上村にとって、ロシアのウラジオストック艦隊の行状は、最早許しがたい一線を越えていた。
さらに8月10日、旅順からウラジオストクへ向かう旅順艦隊を援護するため、ウラジオストク艦隊はウラジオストクを出港したとの情報が伝わります。
上村中将も、ウラジオストク艦隊を捕捉すべく、装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」、防護巡洋艦「浪速」「高千穂」からなる日本海軍第二艦隊を出撃させた。
8月14日、上村艦隊は、蔚山沖でウラジオストク艦隊を発見する。
ウラジオストク艦隊は、敵が輸送船団ではなく、巡洋艦隊であることに気が付くと、即時、直ちに北へ向けて逃走を開始した。
農霧の中です。ロシア艦隊は、霧の向こうからめちゃくちゃに大砲を撃ってくる。
その砲弾の中を、全艦火になった上村艦隊が全艦、全速力で猛追する。
追撃戦のさなか、「出雲」の後続艦「磐手」に乗っていたあるカメラマンが逃走するウラジオストク艦隊を撮影した。後で現像してみたら、それは先行していた友軍の「出雲」であり、同僚に笑われるという喜劇も起きた。
敵の砲弾が炸裂する。味方の艦首大砲が轟音とともに火を噴く。
そしてついにウラジオストク艦隊の3つの巡洋艦のうちのひとつ、リューリックを撃沈した。リューベックは、沈没しながらも、半沈しながらも砲撃を止めなかったといいます。
味方の船を逃がすため、最後の最後まで砲撃を止めなかった。
これを見た上村は「敵ながら天晴れな者である」と述べたという。
リューベックの主砲が鳴りやみ、上村艦隊は残りの2艦を追撃します。
2艦は、はたびたび反転しては、上村艦隊を砲撃した。
上村艦隊も、これに反撃する。
あまりの騒音と喧騒で、艦内は隣の人とも話もできない轟音に包まれます。
その砲撃戦のさなか、上村艦隊の砲弾が残りあとわずかになってしまう。
参謀がそのことを上村に伝えようとするのだけれど、艦内の轟音で、話ができない。
参謀は、黒板に「我レ、残存弾数ナシ」と書いて、その事実を上村に伝えた。
上村は、それを受取ると、参謀から黒板ごと奪い取り、床に叩きつけ、足で踏みつけて悔しがった。
やむなく上村艦隊は2艦の追撃をあきらめ、沈没した「リューリック」いた場所に戻り、乗組員の救助を行った。
ついでにいうと、逃げたウラジオストク艦隊の2隻は、なんとかウラジオストク港まで逃げ込んだ。しかし、2隻とも日本軍によって上甲板に大穴を開けられており、二度と出撃することはないまま廃船にされています。
この蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん)で、日本は日本近海の制海権を取り、その後の日本海海戦、奉天戦の戦い等を遂行し、日露戦争を勝利に導いています。

うちのオヤジの口癖は、「書いたものを見れば人柄がわかる」というものだったけれど、上村彦之丞の書を見ると、実に見事としか言いようのない筆致です。
古武士のような力強さと豪快さ、大義のために尽くす強靭な精神と、人に対するやさしさが書に見事に表れている。
上村彦之丞の書は、人間を鍛えあげると、ここまで凄味が出るものかと、いまさらながら感心します。
書といえば、省庁の看板文字は発足時の大臣が書くことになっています。
下の写真の国家戦略室の看板の書は菅直人の字らしいのだけれど、気障でかっこをつけた字でありながら、一字一字が子供じみててバランスが悪い。

リキミは感じるけれど中身がない。この程度の人物が国家戦略を語る?
片腹痛いというのはこのことです。
日本男児が育つ環境造り、日本はそこから出直さなきゃなんない。ねずきちには、そんな気がします。
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