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津田梅子
津田梅子01

以前、いまどきの若い女性がなりたい職業ランキングというのをこのブログでご紹介したことがあります。
消費社会研究家、三浦展氏の著書「日本溶解論」(プレジデント社)が示した調査結果で、
15-22歳の女性約1900人が対象の人気職種アンケートなのだそうです。
その結果は・・・・・
(1) 歌手・ミュージシャン 39.5
(2) 音楽関係  36.7
(3) 雑貨屋   33.4
(4) パティシエ・菓子屋・パン屋 30.1
(5) ネイルアーチスト 28.6
(6) カフェ店員  28.0
(7) 美容師    24.2
(8) 保育士    23.5
(9) キャバクラ嬢・ホステス 22.3
(10)TVディレクター・編集者 21.8
(15-22歳が対象。複数回答。単位は%)
華やかな職業に憧れるのは結構なことです。
しかし、9位キャバクラ嬢とは・・・
テレビのお笑い番組ばかりを見て育った若者が、憧れの職業としてお笑いタレント(男性)や、キャバクラ嬢(女性)などを選択するのは、ある意味無理からぬことなのかもしれません。
しかし、そんなことで良いのだろうかと思うのです。
これも以前ですが、「明治の貴婦人・・・大山捨松」という記事を書きました。
その記事の中に、津田塾大学の創業者、津田梅子が登場します。
梅子は、明治初期に大山捨松と一緒に米国に留学した女性です。
津田梅子は下総国(いまの千葉県)佐倉藩の武家の出です。
彼女の父親は、津田仙(せん)といいます。
彼は、福沢諭吉らとともに咸臨丸で日本初の親米使節団の一員となった人物です。
佐倉藩というのは、江戸初期に春日局に重用されて佐倉11万石の大名となった堀田氏の家柄で、徳川綱吉の時代には大老職を拝命しています。
梅子の父親・津田仙が学生の頃の藩主は堀田正倫で、彼は「オランダかぶれ」と噂されるほどの西洋的通だったそうです。
そんな藩風から、梅子の父・仙は、15歳で佐倉藩の藩校である成徳書院(現在の千葉県立佐倉高校)を卒業すると、江戸に出てオランダ語、英語、洋学、砲術を学びます。
そして17歳のときは、江戸湾警護のための砲兵隊員となった。
その、若き日の父・仙の前に、巨大な黒船があらわれます。黒船来航です。
まだ青年だった父の目に、それは大きな衝撃を与えます。
「これからの時代は英語だ」
父は、砲兵隊の職を辞すると、江戸の蘭学塾で、英語を猛勉強します。
そして横浜に行って、英国人の医師のもとに弟子入りし、ナマの英語を学びます。
幕府が米国に使節団を派遣しようということになったとき、父は、使節の通訳として採用されます。慶応2(1867)年のことです。
父・仙は、咸臨丸に乗って米国に行きます。
そこでも父は、衝撃を受けます。
米国の巨大な富。
この国では、身分や男女の区分がない。
誰もが才能と努力で出世できる!
戊辰戦争のあと、多くの幕臣が徳川さんと一緒に江戸から駿府(静岡県)に落ちた中で、語学力の達者な仙は、北海道開拓使の嘱託に登用されます。そして黒田清隆など政府要人の知遇を得た。
北海道の開拓をするには、やはりおなじく広大な土地を開拓した米国に見習うのがよろしい。米国では、男女の別なく教育の機会が与えられてもいる。
女子教育に関心のあった北海道開拓官の黒田清隆は、政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画し、実現させます。
日本女子を米国に留学させ、米国女性を現地で観察させてその素晴らしさの秘密を探り、米国式教育を身につけさせ、帰国後は、北海道開拓の良き母になってもらおうという大計画です。
留学期間は10年間という長期に及ぶ。
父は迷わず梅子を渡米させる決意をします。
語学力は子供のうちからです。
実は通訳である父にも悩みがあったのです。
彼は、猛勉強して英語力を身につけた。
しかしそれは16歳になってからです。
決してネイティブではない。
渡米に参加した女性は、14歳が2人、11歳、8歳、6歳の、計5人です。
このなかの11歳が山川捨松、最年少の6歳が津田梅子です。
いよいよ米国に向けて出発のとき、横浜港に見送りに来ていた人々は、幼い梅子を見て言ったそうです。
―あんないたいけな娘をアメリカにやるなんて、親はまるで鬼ではなかろうか。
このとき梅子が知っていた英語は、「イエス」「ノー」「サンキュー」程度でしかなかった。
しかし父・仙と梅子の決意は固かった。
梅子も、父の意志をかたくなに受け取っていた。
父は、幼い梅子に、小さな英単語の辞典と、日本の紙人形などを持たせました。
船は明治4(1871)年に横浜を出発。サンフランシスコを経由して12月にワシントンに到着します。このとき米駐在公使であった森有礼も、最年少の梅子を見て、
「どうすればいいんだ。こんな幼い子をよこして」
と悲鳴を上げたそうです。わかる気がします。
渡米直後の津田梅子(1871年)
津田梅子02

渡米した梅子は、ジョージタウンに住む日本弁務官書記のチャールズ・ランマン家に預けられます。
ランマン夫妻は、惜しみない愛情を梅子に注いで梅子を育ててくれます。
渡米して1年が過ぎた頃のことです。
7歳になった梅子は、自分からキリスト教の洗礼を受けたいと申し出ます。
夫妻が説得したわけでも、勧めたわけでもありません。
梅子はランマン夫人や周囲の米国女性の姿から、米国女性が聖書から道徳を学んでいることを発見したのです。
米国人女性のような立派な女性になることが、留学の目的です。
梅子の小さな心には“自分の留学の使命”がはっきりと認識されていたのです。
少女時代の梅子は、英語、ピアノ、ラテン語、フランス語などのほか、生物学や心理学、芸術などを学びます。
明治14(1881)年には北海道開拓使から帰国命令が出たけれど、山川捨松(のちの大山捨松)と津田梅子の2名は、留学の延長申請して、これが認められます。
留学期間延長によってカレッジを卒業した梅子は、明治15(1882)年7月に帰国します。
11年間のアメリカ生活を終えて帰国した梅子ですが、日本では厳しい現実が待ち受けました。
梅子を送り出した北海道開拓使そのものが、梅子帰国の少し前になくなってしまったのです。北海道開拓使は、資産払下げにまつわる不正スキャンダル事件を起こし、組織自体が解散してしまっていた。
つまり、梅子らの留学を計画した役所そのものがなくなっていた。
帰国した梅子らを受け入れる先がなくなっていたのです。
胸をふくらませながら帰国した梅子は、たちまち落胆と焦燥の日々を過ごすことになります。仕事がない。
加えて梅子は6歳からの渡米で、長い留学生活で日本語能力はほとんど失われていた。
帰国当初は、家族と挨拶を交わすのすら難儀したそうです。
父の仕事や家事を手伝いながら、梅子は悶々とした日々を過ごします。
国費で10年以上にわたって、高い教育を受けてきた。
それを日本の発展のために役立てなければならない。
律儀な梅子はこうした頑なまでの義務感と使命感を持っていた。
ところが当時の日本社会は、女性に教養も、義務も使命も求めていない。
梅子はこの頃ランマン夫人に宛てた手紙に、こう書いています。
「日本の女性たちは、男性からましな扱いを受けることなど期待していず、自分たちは劣っていると感じ、向上しようなどとは全く思っていない」
「東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いにすぎない」
このままではいけない。
女性の地位向上のためには、教育が不可欠なのだ。
梅子の使命感は、徐々に具体的な形となっていきます。
そして梅子の中に、女性のための学校建設をしよう、という明確な目的意識が芽生えて行きます。
それは、男性が考えた女子教育でなく、女性が主導する女性のための女子教育です。
リンカーンの言葉をもじって言えば“女性の、女性による、女性のための教育”です。
ここに大切なことがあります。
梅子が目指した女性の地位向上は、最近のジェンダーフリーや、当世流行のフェミニズムとは、まったく違う、ということです。
梅子の教育論は、女性が権利ばかりを主張し要求する、いまどきのどこぞの、なんとか女史のものとはまるで違うのです。
「女性が自らを高める」というのが、梅子の信念です。
やみくもに権利を主張し、差別されていると被害者ぶり、特別待遇を要求したり、逆に男性を貶めたり、男性を声高に非難することは、かえって女性の尊厳を損なう。
津田梅子が目指していた女性像は、自ら学び、成長し、聡明で公平な判断ができ、責任感に溢れ、能力がある、それ故に家庭では夫から尊敬され、社会から必要とされる女性です。
どこの会社でもそうですが、やたらに被害者ぶり、上司や部下、あるいは同僚を非難ばかりしているような社員は、男女の別なく、はっきり言って不要です。
これに対し梅子が目指す、自ら学び、成長し、聡明で公平な判断ができ、責任感に溢れ、能力がある、それ故に尊敬され、社会から必要とされる人間像は、どんな会社に行っても、役に立つ人材であり、会社を成長へと導いてくれる有能な人材です。
明治21(1888)年は、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日します。
失意の中でも、日本女性の地位向上の夢を追い求める梅子に、アリス・ベーコンは、再度の留学を勧めます。
父親の許しを得た梅子は、翌明治22(1889)年7月、再び渡米する。
フィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、ブリンマー・カレッジ (Bryn Mawr College) で生物学を専攻し3年で早期卒業した梅子は、州立のオズウィゴー師範学校に入校し、ここで将来、自分が教育者となるための“教授法”の研究をおこないます。
ブリンマー・カレッジ卒業時の津田梅子(1890年)
津田梅子03

優秀な梅子に、大学は卒業後も米国に留まって研究を続けることを薦めるのだけれど、明治25(1892)年8月、梅子は、日本に帰国します。
そして、女子華族院、明治女学院などで講師を務めた。
しかし、当時の女子大学や女学院は、行儀作法の延長教育が中心で、学問そのものを追及するような学校ではなかったし、華族と平民の身分差による差別も歴然と存在した。
当時の日本には、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、平民という身分制があったのです。
梅子は、そうした身分差による差別の一切を廃し、進歩的で自由で、女生徒が純粋に学問に打ち込める学校を創ろうと決心します。
明治32(1899)年、梅子35歳の時、念願の「女子英学塾」を創設します。現在の津田塾大学の前身です。
女子英学塾は、はじめ梅子やアリス・ベーコン、捨松など、梅子の友人らを教授陣とする無報酬の教授陣で授業を行います。
しかし女子英学塾は、評判に評判を呼び、生徒数が激増していった。
このため、新たな教授陣の確保、土地や建物の購入、事務経費の増大等、経費がかさみ、「女子英学塾」の経営はものすごく厳しかった。
大正4(1915)年、梅子は、日本の女子教育に対する貢献をたたえて、勲六等宝冠章を受章するけれど、梅子は創業の激務と心労で病に倒れてしまいます。
そして大正8(1919)年、塾長を辞任し、鎌倉の別荘で長期の闘病生活を送りますが、ついに昭和4(1929)年8月16日、64歳で、お亡くなりになります。
生涯独身のままでした。
梅子は、わずか6歳で遠く異国の地に送られました。
幼いながら、梅子は自分の使命を自覚し、ひっしに勉強し、米国の学校内で誰からも認められる優秀な生徒となりました。
帰国した梅子は、共に留学した仲間が、次々結婚し、古い日本社会の慣習の中に埋もれていくのを見て、ひとり頑なに自らの使命に忠実に生きました。
結婚という女性の一般的生き方に抗い、日本女性の地位向上のため、その教育のために献身しました。
そして、日本の女子教育の先駆者として、歴史に名を残すことになりました。
津田梅子は、同時に非常に日本の文化を愛した人でした。
彼女が「津田梅子文書」として英訳した本には、次のようなタイトルが選ばれています。
那須与一(平家物語)、益軒訓抄、小櫃与五右衛門と会津中将(常山紀談)、インスピレーション(徳富蘇峰)、姉妹の孝女(柳沢淇園)、敦盛最後の事(平家物語)、家康の聡明(常山紀談)、伏見の里(新撰日本外史)、清水(狂言)、自然の楽(貝原益軒)、粟津原(源平盛衰記)、朋友(徳富蘇峰)、正行吉野へ参る事(太平記)、西郷南州遺訓,小督の事(平家物語)、三人片輪(狂言)、瓜盗人(狂言)
女性でありながら、紫式部などではなく、平家物語などの武将の物語を選んでいるところに、なにか梅子の心を感じれるような気がします。
梅子の人生を俯瞰したとき、父と北海道開拓使から「社会の役に立つ立派な女性となる」という人生の目的意識を頑なに守り続けた様子を伺い知ることができます。
最近の学校では、子どもたちに「道徳を自分たちで考えさせる」という方針がとられているそうです。
しかし、そもそも人生の目的も、道徳観も価値観も教え込まれていない子供に、それを「考えろ」ということ自体が、どだい無茶な話です。
私は孫が4人いる爺さんですが、この歳になってさえ、自分が何の目的意識も問題意識も持ち合わせない事柄について、それを考えよ、と言われても、無理です。
そもそもモノサシがないことに対しては、考えようがないです。
【先生】ワシントンが桜の木を切ったことを正直に話したとき、 彼の父親はすぐに許しました。何故だか分かりますか?
【生徒】ワシントンはまだ斧を“持っていた”からだと思います!
笑い事じゃないです。
これではまるで特ア人です。
子供には、まず明確な倫理感、道徳観をきちんと教え込み、その上に立って、なにが大切なのかをきちんとわきまえさせことが大切なのではないかと思います。
そのプロセスを経てはじめて人は、自ら学び、成長し、聡明で公平な判断ができ、責任感に溢れ、能力があり、尊敬され、社会から必要とされる人材となっていくのだろうと、思うのです。
誰もが津田梅子のような立派な人生を歩めることはないです。
しかし、立派な社会人として生きようと“努力すること”は、誰にだってできる。
そのためにも日本は、道徳教育を、しっかりと取り戻すべきと思います。
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