
戦艦三笠を駆ってロシアのバルチック艦隊を撃滅したのは、ご存知東郷平八郎連合艦隊司令長官でした。
この東郷平八郎を大抜擢したのが、ときの海軍大臣山本権兵衛です。
山本権兵衛は嘉永5(1852)年に、薩摩藩の右筆をしていた武家の生まれです。
当時の武家の躾(しつけ)はとても厳しかった。
逸話があります。
雪の降った朝のことです。
庭で槍術の稽古をしていた権兵衛が、寒さのあまりかじかんだ手にホウホウと息をかけていた。これを見た父は、裸足で庭に飛び降りるなり、権兵衛を怒鳴りつけます。
「武士がそんなことで役に立つかっ!」
そして権兵衛の頭をつかむと、その頭を雪にねじこんだ。
さらに寒中でも毎晩、井戸水を石鉢に汲み入れ、翌朝、この氷のような水で子供たちに縁や棚を拭かせたそうです。
こういうのって、いまどきは児童虐待とか言われるのかな。
でも、そうやって鍛えあげられることによって、後の山本権兵衛の強い人格ができあがった。
形はどうあれ、問題はそこに相互信頼という心があるかどうかなのではないでしょうか。
権兵衛は、とても気が強く喧嘩っ早いことでも有名だったそうです。
喧嘩している子供たちのところに権兵衛があらわれる。
すると、「権兵衛が来た~~!」と言ってみんなが一目散に逃げ出したそうです。
それだけ一目置かれる存在だった。
厳しく育て上げられた権兵衛は、12歳で薩摩湾で起きた薩英戦争に参加します。もっともこのときは砲弾運びの手伝いだった。
権兵衛が数え年で16歳(いまの15歳)になった時、薩摩藩は、戊辰戦争のための藩兵の募集をした。
権兵衛は、さっそく役所に出かけて、従軍したいと申し出ます。
ところが藩の決まりで、18歳以上でないと従軍できない。
権兵衛は上役に、迷わず「18歳です」と答えて採用になった。
いまでいったら中学3年生で、権兵衛は北越から東北へと転戦します。
戊辰戦争が終わって帰郷した権兵衛は、郷中の大先輩だった西郷隆盛を訪ねます。
西郷は「おはんは海軍に行きなさい」と、権兵衛に勝海舟への紹介状を書いてくれた。
紹介状を胸に、権兵衛は東京へ出ます。
このときの権兵衛18歳。
勝海舟といえば、大西郷と江戸開城の談判をした人です。
よほどの豪傑が出てくるのだろうと身構えていたら、ひょろっとした小男が出てきた。
下男だろうと思ってたかをくくっていたら、なんと勝海舟本人だという。
あわてて「ご指導を願いたい」と平伏したけれど、勝海舟は首をたてにふらない。
西郷さんの紹介状を持ってきました、と言っても、とりあわない。
結局この日、朝の9時から午後4時まで粘ったけれど、
勝は、
「海軍なんざぁ技術的なことばかりで難しいから、止めた方がいいぜ」と、許してくれない。
しかたなく翌日あらためて出直して、その日もまる一日嘆願を重ねた。
けれど、やっぱり許しが出ない。
三日目にも朝から出かけ、まる一日粘った。
その根気に海舟もようやく兜を脱ぎ、その日から権兵衛は海舟の食客になったといいます。
実はこのとき、勝海舟は、内心大喜びしたと思うのです。
勝は、国思いの男です。
そこに西郷隆盛推薦の男の子が来た。
みれば、眼光鋭く、体躯も堂々、声にも張りがある。
聞けば10代で戊辰戦争を闘ってきたともいう。
これは見どころのある男です。
しかし、勝は、すぐには、OKといわなかった。
権兵衛に、どこまでもやり抜こうとする執念があるのかを見定めようとした。
それが、この3日間のできごとだったのであろうと思います。
かくして勝海舟の家に居候を許された権兵衛は、東京開成所(東京大学の前身)で海軍の基礎学ともいうべき高等普通学(数学、外国語、国語、漢文、歴史、物理、化学、地理など)に通います。
そして開成所を卒業した権兵衛は、築地にできたばかりの海軍兵学寮に入った。
ところが権兵衛は、相変わらず酒を飲んでは喧嘩ばかりしている。
学科は苦手で、得意といえばマストのぼり(笑)
兵学寮時代の権兵衛を書いたものには、こんな記載があります。
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山本権兵衛首謀となりて、しばしば教官排斥の運動を起こし、教官室に乱入し、あるいは教官と乱闘し、あるいはテーブル、イスなどを破壊し、流血の暴挙を演ずるに至れり。
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もてあました教授陣は、権兵衛をドイツ軍艦に乗せてしまいます。
これが権兵衛の人生の転機になります。
このドイツ軍艦で、彼は生涯の師と出会うのです。
その師とは、ドイツ艦「ヴィネタ」の艦長グラフ・モンツです。
権兵衛はこの船で、10ヶ月に及ぶ世界半周の航海に出ました。
そこで権兵衛は船の操縦や軍事技術はもちろん、政治、経済、法律、哲学、服装、生活態度、礼儀、趣味など、あらゆる分野について、モンツから学びます。
モンツはドイツの貴族出身で、高い教養と高潔な人格の持ち主だったそうです。
しかも温情あふれる人柄、そして・・・いかにもドイツ人らしい“鉄骨のような合理性”を持つ人だった。
後年権兵衛は語ります。
「私の今日あるのは、まったくモンツ艦長の感化による」
後年、数々の海軍改革を実施し、日本を日清・日露戦争の勝利に導いた権兵衛の合理主義の精神は、このドイツ人、モンツ艦長との出会いがあったからだといわれています。
権兵衛がモンツから学んだことに、もうひとつ、とても大切なことがあります。
それは妻に対する姿勢です。
ドイツの練習船「ヴィネタ」に乗る直前のことです。
権兵衛は、海軍士官合宿所の向かい側にあった女郎屋で、17歳の少女トキと出会います。
トキは、新潟の漁師の娘で、家が貧しくて売られてきたばかりだった。
権兵衛はトキの身の上を聞き、心からいとおしく思ったそうです。
なんとしてでもこの娘を苦境からすくってやろう。こいつこそ私の妻だ。
彼は同僚の協力を得て、女郎屋の二階からひそかにトキを綱で降ろします。
そして、知り合いの下宿にかくまい、結婚してしまいます。
結婚してしばらくしたときのことです。
トキが権兵衛の乗る軍艦を見学に来ます。
その帰り。
軍艦から戻るボートが桟橋に着くと、権兵衛はトキの履き物を持って先に桟橋に渡り、彼女の足元にそれをそろえて置いた。
これを見ていた他の将兵たちは、権兵衛を冷笑したそうです。
当時の日本でこんなことをする者はいなかったのです。
そもそも、妻を軍艦に案内することがまずあり得ない。
まして妻の履き物を夫がそろえて置くなど、ありえません。
男として恥ずべき行為、というわけです。
しかし権兵衛は、まったく意に介しません。
「妻を敬うことは一家に秩序と平和をもたらすのだ」
彼はこう言ってはばからなかった。
この時代、国内では、旧士族による反政府運動や、農民による反乱が続けて起こっています。
佐賀の乱
萩の乱
神風連の乱・・・
こうした戦いでは、いきおい陸軍が主役になります。
そして西南戦争の翌年(明治11年)には、参謀本部条例が改正され、海軍は陸軍に従属するとされた。いわゆる「陸主海従」です。
これに対して当時海軍大佐だった権兵衛は、異議を唱えます。
「島国の国防は海上権を先にすべきである。
我が国は陸を主としているが、
せめて陸海対等にすべきである」
まさに正論です。
しかし当時の日本軍中枢は、参謀総長有栖川熾仁親王、次長川上操六、陸軍大臣大山巌、陸軍次官児玉源太郎、しかも彼らのバックには山県有朋がいる。
簡単にいったら、中枢は全部長州閥で占められていたわけだし、「陸主海従」の中で、海軍大佐あたりが何を言おうが、蟷螂の斧でしかない。
それでも権兵衛はあきらめずに、言い続けます。
そして10年。
ついに海軍大臣となった権兵衛は、宮中に参内し「陸海平等」を天皇に上奏します。
そして陸軍の譲歩をも引き出し、海軍軍令部の独立を勝ち取った。
権兵衛の執念が遂にここに実ったのです。
権兵衛は、「陸主海従」から「陸海平等」へと大改革をついに実現したのです。
権兵衛の大改革は、もうひとつあります。
彼が海軍大臣官房主事のときのことです。
時の海軍大臣は、西郷従道。西郷隆盛の弟です。
権兵衛は、海軍諸制度の改革と不要な人員整理の改革を大臣に奏上します。
これをみた西郷従道は、度肝を抜かれます。
なんと将官(局長、部長級)以下、97名の海軍士官をクビにするというのです。
「こんなに整理したら、有事の際に、支障はないか」という西郷従道に、権兵衛はいいます。
「新教育を受けた士官が増えています。
心配はありません。
戦争になったら、整理した予備役を召集します」
この大改革で、権兵衛は維新の論功行賞による人事を排します。
海軍近代化に不可欠の、年功序列でない、実力本位の合理的新体制を実現したのです。
明治31(1898)年、権兵衛は海軍大臣に就任します。
日露戦争を前に、風雲急を告げた時代です。
権兵衛は常備艦隊(後の連合艦隊)司令長官に、東郷平八郎を大抜擢します。
当時の東郷平八郎は、舞鶴鎮守府長官だった。これは窓際ポストです。
いわば、地方支店の営業所長を、いきなり連合艦隊司令長官に抜擢したのです。
周囲が唖然としたのはいうまでもありません。
いったいどんなスゴイ人物がやってくるのだろうと思っていると、「風采のあがらん小さな男が、ヨボヨボ下を向いて」着任した。
これには海軍内部だけでなく、他の大臣からも物議がかもしだされます。
「なにも窓際で予備役編入寸前の東郷を起用することもなかろう」
「凡才ではとても大任など果たせやせんよ」
「それにしても風采があがらなさすぎる」等々
しかも東郷平八郎と権兵衛は同郷です。
合理主義といいながら、内実は、ただの同郷人事かよ、おかしいんじゃないか、という声が明治天皇の耳にまで届いた。
天皇は、権兵衛を呼びだします。
このとき権兵衛が言ったのが、あの有名な言葉です。
「東郷は運の強い男です」
後にこの人事は、陸軍の児玉源太郎の参謀次長就任と並ぶ二大傑作人事と評されます。
しかしじつはこの人事は、権兵衛にとっては、とても辛い選択だったのです。
東郷平八郎の起用には、前任者の日高壮之丞を解任しなければならなかった。日高は権兵衛の竹馬の友です。
権兵衛と一緒に海軍兵学寮に一緒に入り、いつも一緒に遊び、いつも一緒に連れ添った。なんでも互いに議論しあった大の親友です。
しかし権兵衛は私情を捨てます。
日高は有能な海軍士官です。
しかし、自分の才気に溺れ、独断専行の傾向がある。
ロシア戦は、国運を賭けた戦争です。
その司令長官は、上の方針に反する者であってはならない。
東郷は風采はあがらないが、合理的かつ冷静沈着な判断と行動ができる男です。
それにきわめて運が強い。
権兵衛は東郷以外に、この国難を委ねる人物はいないと心に決めます。
権兵衛は、日高に解任を通告した。
日高は腰の短剣を抜きます。
「権兵衛、何も言わん。これで俺を刺し殺せ」
誇り高き軍人である日高の怒りと失望は、察してあまります。
権兵衛には、日高の心が痛いほどわかった。
権兵衛は、眼に涙を浮かべて日高に語ります。
「そのおはんの性格が、国家の大事に際して不向きなのだ。だから東郷を選ばざるを得なかったのだ」
そして最後に言います。
「俺たちは竹馬の友だ。私はおはんに少しも変わらぬ友情を今も抱いている。
しかし、国家の大事の前には、私情は切り捨てなければならんのだ」
日高も国を思う気持ちは同じです。
彼も涙を浮かべてうなずいた。
「権兵衛、よくわかった。よく言ってくれた」
権兵衛も泣いた。
日高も泣いた。
二人は互いの手を両手でしっかりと握りあったといいます。
こういう話をね、浪花節と笑っちゃいけません。
お互いに真剣だったのです。
真剣だから刀を抜いた。命をかけた男の会話なのです。
こうして、日本の誇る大英雄、東郷平八郎連合艦隊司令長官が誕生したのです。
昭和8(1933)年12月8日、山本権兵衛は81歳でその生涯を閉じました。
その8か月前のことです。73歳になる妻登喜子(トキを改名)がお亡くなりになりました。
登喜子が最期のとき、権兵衛も病床に臥していたそうです。
権兵衛は、家の者に言うと、自分を登喜子のいる2階に運んでもらった。
そして妻の手を握って言葉をかけたそうです。
お互い苦労してきたなぁ。
だがな、わたしはこれまで何一つ曲がったことをした覚えはない。
安心して行ってくれ。
いずれ遠からず、後を追っていくからな」
登喜子は、目からポロポロと涙をながして夫の手を握り返したそうです。
その日、登喜子は夫の愛を胸に抱きながら旅立ちました。
山本権兵衛といえば、海軍を大改革し、後の内閣総理大臣にまで出世した人として有名です。
しかし、ねずきちには、ひとりの女を生涯愛し続けた権兵衛という人が、とても偉大な人物に思えます。
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