
昭和25(1950)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始されました。
宣戦布告はありません。
いきなりの侵攻です。
30分後、11万人の大軍からなる北朝鮮軍が、38度線を越境しました。
昭和28(1953)年7月27日の停戦まで続いたこの朝鮮戦争で、韓国軍約42万人、民間人106万人が命を失い、1千万人が一家離散の悲劇にあいました。
なぜこのような戦争が起こったのでしょうか。
そこですこし時間を遡ってみます。
開戦の5年前といえば、昭和20(1945)年です。
この年の8月15日に大東亜戦争が終わり、9月2日には、戦艦ミズーリ号艦上で連合国に対する降伏文書(ポツダム宣言)への調印が行われました。
そして9月6日には朝鮮半島で、呂運亨(ヨ・ウニョン)率いる朝鮮建国準備委員会による、半島統一国家としての「朝鮮人民共和国」が樹立されています。
ところがその翌日、米軍が半島に上陸しました。
そして米占領軍は、9月11日には、半島に軍政をひくことを宣言し、「朝鮮人民共和国」の建国を否認しました。
統一朝鮮「朝鮮人民共和国」としての独立は、わずか5日で崩壊してしてしまったのです。
ちなみに、この9月6日から11日という日にちはとても重要です。
というのは、この頃すでに北緯38度線以北には、ソ連軍が進駐をはじめていたのです。
そういう状況下において、米軍が、日本占領からやや日をおいて朝鮮半島に上陸したということは、
1 朝鮮半島は日本であったけれど、半島単独では米軍に抵抗できる力はない。
(つまり国家としての力がない)
2 一方でソ連の南侵があったから、韓国への進駐時期を早めた。
という2つの側面があったということだからです。
そして南侵してきたソ連軍は、10月までには、朝鮮北部を占領し、「各地で自発的に生まれた」とソ連が主張する、人民委員会を管理下に置いて、事実上の朝鮮統治を開始していました。
同じ頃、シナでは、蒋介石率いる国民党の敗退が始まっていました。
それまで、China共産党軍である八路軍に対して圧倒的優位にあった蒋介石が敗退をはじめたのは、米英が、国民党への軍事支援を打ち切ったからです。
日本との戦争が終わったので、蒋介石は「用済み」となったのです。
国際政治というのは、冷たいものです。
支援物資の補給を断たれた国民党、ソ連から旧日本軍の装備を無償で譲り受けた毛沢東の八路軍(中国共産党)、となれば、勝敗はおのずと明らかです。
補給を断たれた国民党は、China各地で八路軍に追われて後退し、Chinaはソ連の影響を受けた共産主義化が目前となっていたのです。
そしてソ連は、朝鮮半島内部でも同じことをしていました。
金日成(キム・イルソン)率いる共産パルチザンに、旧日本軍の装備を次々と与えたのです。
これにより、南満州で国民党の残存勢力を駆逐したことで手柄をたてた金日成は、朝鮮北部へと侵攻し、昭21(1946)年2月8日には「朝鮮臨時人民委員会」を設立し、日本が築いた半島北部の財産である重工業地帯を強襲して強奪しました。
これはとても重要なことで、彼はこれによって、朝鮮半島の富を完全に奪うことに成功したのです。
そして彼が奪った施設と富は、ことごとく日本によって戦前に築かれたものでした。
半島北部での共産国家設立の動きに対し、日本統治時代にアメリカに亡命して独立運動を繰り広げてきたKoreanの李承晩(イ・スンマン)は、朝鮮半島での反共産勢力による早期の国家設立をアメリカに迫りました。
李承晩は、後の韓国初代大統領です。
そして李承晩は、昭和22(1947)年6月には、韓国の前身となる「南朝鮮過渡政府」の設立を宣言しました。
この「南朝鮮過渡政府」という名前に、李承晩の性格が良くあらわれています。
朝鮮半島は、南北の境なく、日本の統治のもとにあったのです。
そして冒頭に申上げたように、大東亜戦争終結後、朝鮮半島には、Koreanたちによる統一政府ができあがりました。
この政府は、米軍によって否認されてしまうのですが、その原因となったのが李承晩です。
というのは、統一朝鮮ができたとき、実は北の金日成も、この式典に参列していたのです。
ところがこれに目を付けた李承晩は、共産党員が一緒にいるようなことでは、国家としての成立はむつかしいと、強硬に主張し、米国政府の了解を取り付けて、統一朝鮮建国を阻害したわけです。
そしてこのことの狙いは、あくまで朝鮮半島は、ひとつの朝鮮として、共産党のいない国家建設を目指すというものでした。
けれど「共産党がいたら国家の建設は出来ない」というのは、あきらかな詭弁です。
現に、日本は、共産党がいまもあります(迷惑な存在ではありますが)。
要するに、権力亡者である李承晩は、あくまで統一朝鮮の建国にこだわりながら、一方でその統一朝鮮に自分と対立軸になりそうな金日成がいるということを警戒したわけです。
ところがその李承晩が、韓国建国に先立って築いた政府が「南朝鮮過渡政府」です。
ここでは「南」とあえてこだわっています。
すでにこの段階では、北を奪われた以上、自分は南で独立国の王になるという考えでいたことを、この名称は明確に物語っています。
つまり、李承晩にとっては、Koreanが統一国家を建設することよりも、自分の権力の及ぶ範囲が明確であることを望んだ、ということです。
さて米国は、共産主義者との対立が深まる朝鮮半島について、南北の話し合いの場をもとうと、同年11月、国際連合に半島統治問題を提起しました。
ところがこれに危機感を募らせたのが北の金日成です。
危機感を抱いた金日成が、そこで何をしたかというと、ソ連に根回しをして、翌昭和23(1948)年2月8日に「朝鮮人民軍」を創設したのです。
そして、同じ月の26日には、北緯38度線以北を「朝鮮民主人民共和国」とすると一方的に宣言してしまいます。
これは朝鮮半島にとっては、政治もさりながら、経済にとって実に重大なことでした。
というのは、当時の国際社会の富の源泉は重工業であり、その重工業地帯を金日成は手中におさめていた。
一方で、南朝鮮は、小規模な農業と漁業があるくらいで、ひとことでいえば、貧乏です。
つまり金日成にとっては、貧乏な半島南部などいらない、というわけです。
ここのところを、すこし解説を加えます。
日本統治前の朝鮮半島は、半島全部が極貧状態でした。
そこで日本は、気候条件の良い南朝鮮では農業を充実させて豊かな食の実現を図りました。
そして気象条件の厳しい(寒い)北部では、重工業地帯を形成して、朝鮮族に富をもたらそうとしたわけです。
つまり朝鮮半島を、南の食と、北の工業の二本立てとすることで、豊かな恵みのある地域を目指そうとしたわけです。
そして、金日成は、その朝鮮半島から、まず富を奪った、というわけです。
米国は、金日成の行動を激しく非難しました。
勝手なことは許さん!というわけです。
これに対して金日成が打った手だてが、いまにしてみれば、笑えます。
なんと彼は、南半部への送電を全面的に停止したのです。
当時南半部の電力は、日本によって建設された北部のダムによる発電に頼りきっていたわけです。
その送電がなくなれば、南朝鮮は真っ暗闇です。
民衆の不安感は増大し、米国に対する非難も高まります。
さらに金日成は、手を打ちます。
半島南端の済州島で、南朝鮮労働党という共産主義グループに、停電に呼応して武装蜂起させたのです。
主張は「自分たちも北の共産党に入りたぁい」です。
これに対して、南の長である李承晩が打った手は、歴史に残る蛮行でした。
彼は、武器を持たず暴徒化していた済州島民8万人を、南朝鮮労働党員であるかないかを問わず、そこにいたというだけで、虐殺してしまったのです。
(昭和23(1948)年済州島四・三事件)。
当然、これに対して非難の声が出ます。
その非難を跳ね返すために、李承晩は、同年8月15日、「大韓民国」の成立を宣言したのです。
金日成はこれに対抗して翌月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」建国を宣言しました。
つまり、後先考えない李承晩の韓国建国によって、ついに朝鮮半島は、同じ朝鮮族の、38度線をめぐる南北の政党同士の政権争いから、北と南の国どおしの争いに紛争が拡大したのです。
そしてこれによって、北緯38度線は単なる国内境界線ではなく、「国境」となってしまったのです。
こうした国内政権抗争劇を、国家規模の戦争にまで拡大した朝鮮族の李承晩に対し、米国は昭和25(1950)年1月12日、米国トルーマン政権下のディーン・アチソン国務長官によって、次のような発言による牽制を行いました。
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米国が責任をもつ防衛ラインは、フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までである。
それ以外の地域は責任をもたない。
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おわかりになりますでしょうか。
米国が責任を持つ範囲に、朝鮮半島がはいっていないのです。
朝鮮半島には、当時、米軍が駐留していました。
にもかかわらず米国が朝鮮半島を含まないと発言した意図は、2つあります。
ひとつは、米国の国防政策において太平洋の制海権は絶対に渡さないというものです。
もうひとつは、李承晩の暴走を抑え込もうという意図です。
実は李承晩は、没落した朝鮮両班の出身です。
たまたま近所に出来た教会で、米国人牧師から洗礼を受けた李承晩は、両班という身分も相俟って、李王朝によって、米国に留学させてもらえるという栄誉に預かりました。
ですから彼の頭の中には、自分は両班という特権階級の人間であるという選民意識と、李氏朝鮮時代への強烈な復古意識があります。
ですから当然の流れとして、彼は成人して、日本統治反対運動に身を投じることとなり、ついに上海で「統一韓国臨時政府樹立」なども行っていました。
もっとも、この臨時政府の大統領に就任した李承晩は、勝手に交易の約束などをして、臨時政府からも追い出されてしまいます。
そして、間の悪いことに、日本の憲兵隊に逮捕までされてしまう。
日本の憲兵は、いつまでも李氏朝鮮を恋しがる李承晩を、なんとか改心させようと、いろいろと努力したようです。
そしてある日、彼を平手で一発打ちました。
これが決定打になりました。
李承晩は、生涯をかけて、反日思想に凝り固まったのです。
なぜかというと、「俺様の頬を打った」からです。
実際には、これが他の国であれば、政治思想犯として、李承晩は何の取り調べもなく、また改心させようなどという説得さえもなく、強制収容施設に入れられ、苛酷な労働を課されるか、身の毛ものよだつ拷問を加えられた上、一族郎党、全員皆殺しにされるのがオチです。
実際、李承晩は、自分が権力をとったあと、親日派と目される人々に片端から、そのような仕打ちをしています。
北と南に別れた韓国と北朝鮮は、それぞれが我が国こそ朝鮮半島の正規の政府であると主張しました。
実際には、李承晩は、韓国建国前の臨時国家の名称が「南朝鮮過渡政府」であることにも明らかなように、南朝鮮だけにしか政治的影響力が及ばない状況にあったわけです。
もう戦争は終わったのです。
いまさら誰も戦争などやりたくない。
ですから、李承晩はそれでおとなしくしてれいば、良かったのです。
ところが彼は、北に対して、次々と敵対行動をとります。
ということは、南北で戦争が起きてしまう。
米国政府は、李承晩にいい加減、手を焼きます。
やむをえず米国は、韓国の軍事力の大半を米国で請け負うことで、韓国軍が単独で重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ごうとしました。
要するに、韓国軍に僅かな兵力しか与えないことで、とにかく李承晩の暴発と半島内での紛争を防ごうとしたのです。
ところがこのことは、北の金日成に、南朝鮮の李承晩による北侵攻の危機を抑え込む好機を意味しました。
金日成は、昭和25(1950)年3月、ソ連を訪問し、スターリンに李承晩との開戦許可を求めます。
スターリンは、毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認しました。
同時にソ連軍事顧問団に、南侵計画である「先制打撃計画」の立案を命じます。
スターリンの考えは、金日成の南進によってKorean同士で戦わせ、万一、金日成がしくじることがあっても、ソ連は直接には手を下さず、毛沢東に後ろ盾をさせようというものだったのです。
同年5月、金日成はシナの毛沢東を訪ねました。
そして「北朝鮮による南半部への侵攻に際し、中華人民共和国がこれを援助する」という約束を取り付けます。
こうして、昭和25(1950)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始されました。
30分後、11万人の大軍からなる北朝鮮軍が、38度線を越境しました。
宣戦布告はありません。いきなりの侵攻です。
ちなみに北朝鮮は、現在に至るまでこの開戦を「韓国側が先制攻撃してきた」と主張していますが、この主張はソ連崩壊後のロシア政府でさえ、公式に否定しています。
このとき、38度線の警護にあたっていた韓国軍は、一部の部隊が警戒態勢をとっていただけの状況でした。
ただでさえ少ない韓国軍兵士は、6月の田植えのために、ほとんどが田舎に帰っていたのです。
しかもソウルで前日に、陸軍庁舎落成式の宴席があったため、軍幹部が二日酔いで登庁すらしていません。
大統領である李承晩への「北来襲」という報告すら、奇襲後6時間経過してからのものでした。
手薄な前線の韓国軍には、対戦車装備すらありません。
そこに北朝鮮軍は、ソ連から貸与されたT-34戦車を中核にして、次々押し出してきました。
各所で韓国軍は総崩れとなり潰走します。

初戦の猛攻での大勝利。
金日成は、一気呵成に李承晩を半島から追い落とし、5回目の光復節をソウルでむかえると宣言します。
北朝鮮軍の士気はおおいに盛り上がりました。
開戦3日目の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落しています。
住民に多くの犠牲を出しながら、韓国政府は、首都をソウル南方の水原に移しました。
このソウル陥落の際、李承晩は漢江にかかる橋を爆破しています。
それは北朝鮮軍の侵攻を遅らせるためという名目でした。
けれど、このときまだ漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残されていたのです。
孤立した韓国軍兵士とソウル市民やそこにいた婦女子たちがどのような目にあったのか、想像するだに恐ろしいことです。
水原に落ちのびた韓国軍は、士気も下がり、韓国軍兵士と負傷者がひしめいていて、全滅が現実のものと感じられる状況でした。
そこにマッカーサーが、東京から視察にやってきました。
マッカーサーは米軍の派兵を韓国軍に約したけれど、その日のうちに東京に帰ってしまっています。
気持ちはわかる気がします。
東京に帰ったマッカーサーは、米国政府に在日米軍2個師団(約3万人)を投入するように要求しました。
しかし戦争の再発をおそれたトルーマン大統領は、米軍参戦を許可しません。
そりゃそうです。第二次世界大戦は終わったのです。
いまさら、なんでまた米国が戦争しなきゃならないのか。
それでも食い下がるマッカーサーに、トルーマンは、ようやく1個師団だけ、派兵を許可しました。
これはマッカーサーの政治力の賜物です。
そしてマッカーサーは、日本に駐留していた第24師団第21連隊第1大隊を基幹とする師団を水原市に派遣しました。
米軍部隊は、水原南方の烏山の高地に陣取って北朝鮮軍を待ち受けたのです。
そこへ、北朝鮮の第4師団が、ソ連製T-34-85戦車やSU-76M自走砲などの車輌を先頭に迫ってきました。
ソ連製の兵器を使う北朝鮮兵と、米軍の戦いです。
ただし、このとき派遣された米第24師団というのは、名誉ある師団でしたが、中味は大東亜戦争での経験を持たない、新たな徴用兵たちでした。
旧日本軍との戦闘経験を持つ精鋭は、戦いに疲れ、すでに本国に帰還していたのです。
北朝鮮軍を視認した米軍は、バズーカなどで攻撃を加えました。
しかし相手は、ソ連の誇る新鋭T-34/85戦車です。
バズーカごとできは、まったく歯が立ちません。
北朝鮮軍の戦車と歩兵は、各所で米軍を突破し、米軍は総崩れとなって大敗します。
米陸軍の大部隊が、一瞬で大敗したのです。
驚いたマッカーサーは、米精鋭部隊の派遣を本国に要請しました。
けれど、戦争に倦んだ米国世論は、これを許さない。
トルーマン大統領は、できたばかりの国連安保理に諮り、第二次大戦戦勝国諸国での多国籍軍を編成し、これを朝鮮半島に送り込むことを決意します。
しかし、混成多国籍軍というのは、明確な指揮命令系統を欠きます。
しかも戦争準備さえも不足している。
国連軍も各所で敗退してしまったのです。
李承晩は、水原も捨て、南へ南へと、逃げ続ました。
このとき敗走する李承晩は、自国を守れず潰走しながら、武器を持たない韓国保導連盟員や共産党関係者の政治犯など20万人以上を虐殺しています。
一方で北朝鮮は、忠北清州や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などと難癖をつけて大量に虐殺しました。
Korean同士で、武器を持たない市民を虐殺しあっていたのです。
そしてこの虐殺から逃れてボートピープルとなったKoreanたちが、祖国を捨てて大挙して日本に逃げてきました。
これが、いま日本にいる在日韓国人たちです。
こうして李承晩は、ついに朝鮮半島最南端の釜山まで追い詰められてしまいました。
釜山は、この時点で韓国にとっての最後の砦でした。
ここを追い落とされたら、あとはもう海の中です。
韓国軍は釜山を取り巻くように防御線をひいていました。
このとき、米軍を主力とする国連軍はすこしずつ増援されてきていました。
しかし、兵力の逐次投入という愚をさけるためと称して、彼らは兵力を釜山にとどめ、戦いに参戦しない。
戦略的に時間をかせぎつつ大兵力がたまるのを待つ、というのです。
このとき、歴史はひとつの奇跡を生みます。
韓国軍の救世主となる、金錫源(キム・ソクウォン)という人物が現われたのです。
金錫源は、漢城出身の生粋のKoreanです。
けれど幼いころからたいへんに優秀で、日本の陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、満州事変やシナ事変で一個大隊を率いて中国軍を殲滅し、Koreanとしては初、また生存している佐官では異例の功三級金鵄勲章を天皇陛下から授与された経歴を持つ人物です。
釜山にまで韓国および多国籍軍が追いつめられるまで、残念ながら戦いのプロである金錫源将軍には、なんのチャンスも与えられませんでした。
日本の陸軍士官学校を卒業し、生粋の日本人であった金錫源将軍を李承晩は嫌悪し、彼に監視をつけ、一切の行動を取らせないようにしていたのです。
ところが、釜山まで追いつめられた。
もうここを追われたら、逃げるところさえない。
そこまで追いつめられたとき、はじめて、金錫源将軍に、なんとかしてほしいと依頼がきたのです。
彼はこのとき、国連軍の総司令官がマッカーサーを嗤って、次のように述べています。
日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。
よろしい。
日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、
存分にみせつけてやりましょう。
彼はそういって軍刀の柄をたたきました。
金錫源は、元日本兵だった経験を持つ1個師団だけを率いました。
そして粛々と釜山東部の守備に就かせました。
そこに北朝鮮軍がやってきました。
最後の決戦なのです。
北は大軍です。
北朝鮮軍は金錫源将軍率いる師団を静かに包囲しました。
金錫源将軍の師団は完全に孤立してしまいます。
その状態で、8月15日深夜、金錫源将軍は、なぜかこっそりと米軍本部に使いを出しました。
そして一部の兵力を夜のうちに海岸線方面に移動させました。
翌朝、双方の戦いが始まりました。
金錫源は、飛び交う銃弾の中で、日本刀を振りかざして陣頭に立ちました。
そして敵軍を睥睨し、撃て~!と叫びました。
大将が、先頭に立って指揮をとる。
それは、朝鮮戦争始まって以来、ついぞ見られることのなかった姿でした。
Koreanの兵隊たちからみて、その姿は、これこそがほんとうの軍人の姿だと思えました。
そして兵の士気は、著しく高まりました。
金錫源将軍たちが、孤立した丘で奮戦している間、米軍は動きません。
多国籍軍も、釜山にあってひたすら沈黙を守っていまする。
金錫源将軍の率いる師団に、援軍はありません。
「孤軍」の状態で、金錫源たち旧日本兵師団は戦います。
しかも、多勢に無勢、兵力、火力とも10倍以上の違いがあります。
金錫源将軍側の陣の敗色が濃くなった頃、彼は頃あいをみて、兵力を敵右翼に集中しました。
そこから北朝鮮軍に一斉砲撃をしかけました。
そして、にわかに突撃を命じました。
相手は命知らずの旧日本軍韓国兵です。
その猛烈な戦いぶりに、北朝鮮軍はあわてて後退します。
敵殲滅の好機到来です。
金錫源軍の士気はいやがおうにもあがります。
ところがこのとき、なぜか金錫源は、全軍に退却を命じてしまいます。
深夜です。
日付はすでに16日になっています。
北朝鮮軍は、韓国軍が退却し始めたのを見ると、反撃に転じました。
そして金錫源軍をいっきに殲滅させようと迫ってきました。
それは実は、金錫源将軍の読み通りの展開でした。
北朝鮮の機甲軍団は、韓国軍を追って進路を東に転じ、岬をまわって海岸線に出てきました。
その出たところに、あらかじめ金錫源将軍から連絡を受けていた米艦艇が、やにわに姿を現したのです。
そして北朝鮮軍めがけて、一斉に艦砲射撃をあびせた。
天地がくつがえるかと思われるような轟音がひびきました。
無数の砲弾が、まる裸の北朝鮮軍第五師団のうえに降りそそぎました。
米国誇る太平洋艦隊の主砲です。
陸上では、バズーカ砲さえ歯がたたないT型戦車といえども、戦艦の巨砲の前にはひとたまりもありません。
それを待っていた金錫源将軍の第三師団は隊列を変化させ、北朝鮮軍を包囲して砲撃を開始しました。
艦砲、迫撃砲、榴弾砲などあらゆる種類の砲弾が火を噴きました。
北朝鮮の戦車を粉砕し、兵を空中に飛ばしました。
ほんのわずかな間の出来事でした。
北朝鮮軍は一瞬の後に壊滅し、兵たちがバラバラになって敗走をはじめます。
ところがその潰走ルートには、金錫源があらかじめ忍ばせた伏兵がいました。
そして潰走する北朝鮮兵に猛射をあびせました。
「草木皆ナ兵ト化ス」
恐慌状態におちいった北朝鮮軍は、軍隊組織として統制のとれた行動をすることが不可能になりました。
そして北朝鮮軍は予想外の損害をうけ、いったん盈徳を放棄して西北にさがり、休息と再編を余儀なくされてしまいます。それだけでなく、友軍との連携すらとれなくなった。各部隊の孤立化がはじまったのです。
8月22日、金錫源たちが戦った釜山の反対側の西側では、遊鶴山のふもとを守っていた韓国軍一個大隊が、北朝鮮軍の攻撃に耐えかねて後退を開始ます。ここにも元日本兵が数多くいました。
このままでは米軍第27連隊の側面が敵にさらされる。戦線の崩壊もまぬかれない。
釜山が陥落すれば、もはや韓国はおしまいです。
そこに、白善燁(ペク・ソンヨプ)師団長が駆けつけました。
そして散らばっていた兵を集合させて座らせました。
白善燁師団長も日本陸軍将校の出です。
1939年平壌師範学校を卒業したのち、奉天の満州軍官学校に入学、41年に卒業して満州国軍に任官し、43年には間島特設隊に配属され戦っています。
実はこのとき、白善燁師団長は、このときマラリアを患い、高熱を発していました。
けれど集まった西側守備隊の兵士たちに
「二日間,補給もないのによくがんばってくれた。感謝の言葉もない」
とねぎらいの言葉をかけ、
「ここが破れればわれわれには死が待っている。それに見ろ。アメリカ人もわれわれを信じて戦いに来ている。かれらを見捨てることができるか」と静かに語りました。
そして突然立ち上がると、大声で兵士たちに言いました。
「ただいまより、あの四八八高地を奪回する!
ワレに続け!
もし俺が臆病風にふかれたら後ろから撃て!」
そうさけぶと、銃をとり、先頭にたって突撃を敢行したのです。
兵たちは驚きました。
いきなり前線に、高熱の師団長が現れたかと思ったら、鬼気がのりうつったかのように咆え、駆けだしたのです。
「師団長に続け~~!」
鬼人と化した韓国軍は、わずか一時間で四八八高地を奪還してしまいました。
そしてそこから谷底の北朝鮮軍にむかって猛烈な砲火をあびせました。
そしてここでも北朝鮮軍は完全に潰走しています。
前線の北朝鮮軍が無力化されたことで、米軍はその退路を断つ作戦を発動します。
そして仁川に上陸すると、南進していた北朝鮮軍の補給路を完全に断ち、9月28日には、ソウル奪回を果たしました。
勢いを得た米韓多国籍軍による南軍は、反攻に転じ、10月1日にはそのまま38度線を突破、10月20日には、北朝鮮の臨時首都の平壌までも制圧します。
北朝鮮が完全に壊滅とみられたとき、中国共産党義援兵が北朝鮮に味方して参戦します。
100万人以上の大兵力です。
米韓多国籍軍は、シナの人海戦術に、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。
しかしシナの大軍の装備は、ソ連から補給された日本軍の残存兵器です。
それ以上の装備はない。旧式兵器に頼るシナの援軍は、度重なる戦闘ですぐさま消耗し攻撃が鈍ってしまいます。
米韓多国籍軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、翌年3月14日にソウルを再奪回。
しかし、戦況は38度線付近で膠着状態となった。
そして最終的に38度線を休戦ラインとして、現在にいたっています。
以上が朝鮮戦争の概略です。
戦いには「勢い」と「転機」があります。
北朝鮮の南進により、もはや対馬海峡に追い落とされるのも時間の問題にまでなった韓国軍を、その窮地から救ったのは、旧日本軍に所属し、数々の武功を立てた元日本兵でした。
上に登場した金錫源将軍は、朝鮮動乱で韓国軍が雪崩を打って敗走を重ねた時、軍刀(日本刀)を振りかざし、
「攻勢こそは最大の防御」
「死をもって戦うときにのみ勝機は訪れる」と部下を叱咤激励したといいます。
韓国軍が釜山で辛うじて全軍の崩壊を免れ踏みとどまったのは、かつての大東亜戦争の英雄が「ここにあり」と奮戦する姿に鼓舞されたからだともいいます。
金将軍は多くの将校が近代戦には邪魔になるといって軍刀をはずす中、
「日本刀は武人の魂である」と、ひとり軍刀(日本刀)を手放さない人でした。
昭和55年、金錫源将軍は、靖国神社に参拝されました。
靖国には、フィリピンのルソン島各地を中隊長として転戦し、アレプンヨ高地で壮烈な戦死を遂げた彼の次男、金泳秀が祀られているのです。
金錫源将軍は、参拝後、一緒に参拝した元日本陸軍の兵士たちにこう語ったといいます。
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自分の息子は戦死した。
それは軍人として本望である。
本人も満足しているであろう。
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息子を犠牲者として日本を恨むような卑怯な姿は、金錫源将軍には、微塵もありません。
逆に、並いる旧日本軍将兵らが、金錫源将軍に「軍人精神の神髄」を見たと感嘆したそうです。
韓国人が日本統治時代の歴史を肯定的に評価した「親日派のための弁明」という本があります。金完燮(キムワンソプ)という人が書いた本です。
金完燮さんは、この本のために、韓国内で問題視され、本は青少年有害図書に指定され、金完燮は逮捕されました。
彼はこう書いています。
=======
まず日本社会が一日も早く米国と周辺国により強要された自虐史観と植民史観から抜け出す必要がある。
過ぎた歴史に対する反省はどの国家でも必要なことだが、日本は、過去史に対する反省があまりにも行き過ぎている。
日本では過去の歴史に対する正当性を理解しようという動きがより強化されねばならず、これを通じて歴史に対する主体性回復がなされなければならない。
=======
どこの国にも、その国の民族の歴史と伝統と文化があります。
それをそれぞれ尊重するのが、正しいあり方だと思います。
戦前の日本は、大東亜共栄圏を構想しました。
それは東亜の各国がそれぞれの国の歴史と伝統と文化を、尊重し、育み、独立して、互いに共存共栄するという構想でした。
大東亜共栄圏構想は、日本一国が繁栄すればよいという、偏狭なナショナリズムではありません。
みんなが良くなる。みんなが繁栄する。
そのために互いに協力する。
これは、友愛などと言葉だけの美言で、日本の歴史・伝統・文化を否定する思想とは、まったく逆のものです。
そういう日本の正しい歴史を、わたしたちは取り戻す必要があります。
ちなみに、この朝鮮戦争のとき、日本にボートピープルとなって逃げてきたKoreanを、当時の日本は、まだ戦争の傷跡の癒えない焼け野原の中で、助けました。
それが戦後60年を経て、いまや日本国内に200万人の半島出身者が居住する。
どんなに派手なネズミ算をしても、245人が60年で200万人に増えることはありません。
要するに、朝鮮戦争のとき(その開戦前の済州島事件を含めて)に、日本に逃げてきたKoreanの子孫が、いまの在日コリアンです。
そして彼らは、日本は悪い国だと言う。
日本が戦前に徴用したKoreanは多数いましたが、戦後、日本は国費をもってそれらKoreanを本国に帰還させています。
どうしても帰りたくないと、日本に残ったKoreanは、正式に記録に残っていますが、わずか245人です。もうしわけないが、戦前日本にいたKoreanと、いま日本にいる在日Koreanは、異なります。
韓国の初代大統領李承晩は、戦時中に半島の独立運動を謀ったかどで憲兵に逮捕され、暴行を受けた経験を持ちます。そのため彼は極端に日本を嫌悪しました。
しかし彼は、韓国内で自国民を大量虐殺している人物でもあります。
そして北の金日成の南進を招き、釜山界隈まで追い詰められ、半島の自由民主主義勢力を、壊滅の危機まで追い込んでいます。
皮肉なことに、李承晩率いる韓国を、最後の最後で北朝鮮の支配から救ったのは、彼が最も嫌悪した旧日本軍の帝国軍人でした。
終戦後64年。
朝鮮戦争停戦後56年。
日本も韓国も、そして在日コリアンの方々も、もういちどこれまでの歴史観を一度「リセット」し、本当の歴史、真実の歴史を、あらためて見直してみるべき時にきていると私は思います。
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