
日魯漁業といえば、いまは名前が変わって株式会社ニチロ。
ニチロ食品といえば、さばの缶詰や、冷凍食品などでおなじみの会社です。
その日魯漁業の従業員2,500人が、昭和20年8月の終戦のとき、アリューシャン列島(千島列島)の先端、カムチャッカ半島のすぐ手前にあるシュムシュ島(占守島)にいました。
島に缶詰工場があったのです。
食糧事情が困窮する中、国民の食糧確保のための缶詰工場でした。
従業員の中には、約400人の若い女子工員も混じっていた。
終戦を迎えた8月15日から3日目の8月18日午前1時のことです。
突然ソ連軍がこの島に猛烈な砲撃をしかけ、奇襲上陸をしてきます。
日本軍守備隊第91師団は、このとき武装解除準備をすすめていました。
戦車部隊でも車載銃砲や無線機の取り外し、爆砕や車両の海没の準備まで進めていた。
そして第91師団の兵士たちが就寝時間にはいっていた午前1時、突然対岸のロパトカ岬からソ連の長射程重砲の砲撃が始まった。
国端崎の監視所からは「海上にエンジン音聞ゆ」と急電がはいった。
降伏に関する軍使なら、夜中に来ることはありえません。
「これは危ない」と判断した日本軍は、島一面が濃霧に包まれた中で、急いで戦闘配備を整えます。
その間にも、
「敵輸送船団らしきものを発見」
「敵上陸用舟艇を発見」
「敵上陸、兵力数千人!」
相次いで急報が入ります。
第91師団は国端崎の砲兵、竹田岬と小泊崎の速射砲・大隊砲が協力して反撃を開始します。
そして陸海軍航空機による決死の反撃を行うとともに、重砲によって敵部隊への砲撃を行います。
そしてソ連軍の指揮系統を大混乱に陥らせます。
激戦の中、第91師団の参謀長と世話役の大尉は、日魯漁業の女子工員のことを気遣います。
「このままでは、女子行員たちは必ずソ連軍に陵辱され被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返さなければならない。いまがチャンスだ」
二人はそう申し合わせると、すぐに部隊に命じ、島にあった20数隻の漁船に女子工員約400名を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向けて出港させます。
ソ連航空機による爆撃が続く中です。
第91師団は、必死で高射砲の一斉射撃をして、爆撃機を追い払います。
敵上陸部隊にも集中砲撃を行った。
海上の艦船を、漁船の出港が見えない位置に釘付けます。
戦いは4日間続きます。
戦闘は激烈を極めました。
日本軍の死傷者約 600名。
ソ連軍の死傷者約3,000名。
第91師団は、敵ソ連軍を圧迫し、海岸付近に釘付けし、一歩も内陸に前進させなかった。
あと一歩でソ連上陸部隊を殲滅(せんめつ)するところまで追い詰めた。
8月21日、島に第五方面軍司令部から停戦命令が届きます。
第91師団は、ソ連軍の攻撃はまだ続いている中で軍使を派遣します。
そして自ら進んで停戦交渉を進め、戦闘を終結させた。
第91師団のもとに、女子工員たちが「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、戦闘終結の翌日のことでした。
第91師団のみなさんの、この報を受けたときの喜びはいかばかりだったでしょう。
しかし、占守島にいた日本人約25,000人は、武装を解いた後、上陸してきたソ連兵によって民間人を含めて全員逮捕されます。
シベリアに到着した時点で、人数が5000人に減っていたという話もあります。途中で多くに日本人が殺されている。
そして生き残り、シベリアに抑留された人々も、寒さと飢えと栄養失調のために、約1割が亡くなっている。

なぜ、ソ連は、終戦3日後に強襲上陸進攻を強行したのでしょうか。
千島列島に配備された日本軍に対する攻撃は、米海軍によって行われていました。
終戦3日前の8月12日には、温禰古丹島から占守島に漁船で移動中の日本軍の独立臼砲部隊が、米艦隊の砲撃により全滅させられ、88名に上る戦死者を出しています。
つまりこの地域には、米軍による戦闘実績があった。
そしてソ連は、ヤルタ会談の秘密協定で、米英から千島列島をソ連に引き渡すとい言質は得ていたけれど、日本固有領土の千島列島を、米英がそうそう簡単にソ連に引き渡すか疑問を持っていた。
ソ連は、自らの戦闘実績をつくり、自力で千島を占領しようとしたのです。
そのため彼らは、日本がポツダム宣言を受諾した後の8月15日からあわただしく戦争の準備し、奇襲上陸してきた。
ソ連はその後、米国に対して北海道の分割統治の要求を行っています。
つまりソ連にしてみれば、千島侵攻がうまく行けば一気に北海道まで侵攻しようとする意図があった。
ソ連は「占守島は一日で占領する」と豪語していたそうです。
しかし、占守島の第91師団は、そうした彼らの目論見を、見事に粉砕した。
敵をせん滅しかけただけでなく、彼らを一週間にわたり島に釘づけにした。
ソ連軍が占守島に釘づけにされている間に、米軍は北海道進駐を完了させます。
それによって、北海道は、ソ連軍の侵攻を免れ、ドイツや朝鮮半島のように、日本列島が米ソによる分割統治になるという事態が避けられたのです。
占守島の第91師団。
彼らは、終戦を迎えた後にも、身を持って卑劣なソ連の進行を妨げてくれた。
彼らは、ソ連軍占領予定地点の北海度中部まで本土上陸を阻止ししてくれた。
彼らは、多くの婦女子を占守島より脱出させてソ連軍より守り通してくれた。
彼らは、上陸しようとするソ連軍を水際から一歩も踏み入れさせず、勇敢に戦ってくれた。
占守島の第91師団は、私たちに北海道を残してくれた。
彼らのおかげで、北海道は、いまも日本でいます。
ボクたちは北海道産のおいしい国産の食品を食べることもできる。
占守島に上陸してきたソ連兵は、日本兵の武装解除の後、島中で、女性を捜し回ったそうです。が、あとの祭りでした。
もし彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったら・・・
ボクたちは占守島の第91師団の勇気を、恩を、決して忘れてはならないのだと思います。
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