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チャンドラ・ボース
チャンドラ・ボース

「秘境西域八年の潜行」(中央公論社)という本があります。
著者の西川一三氏は、元、外務省調査官です。
彼は、昭和18年、彼はラマ僧に扮して、Chinaの内蒙古に入り、寧夏、甘粛、青海、チベット、ブータン、西康、シッキム、インドをめぐって、チベットの古都、ラサに到達し、終戦を迎えました。
目的を失った彼は、ラサ近郊にあるレボン寺に修行に入りラマ僧として2年間生活します。
寺を出たあと、西川氏は、再びヒマラヤを越えてインドに向かい、インドの仏教遺跡巡りをはじめる。
昭和25年6月、彼はビルマまで足を延ばそうとした矢先に、インド政府に拘留され、日本に送還されました。
そして上陸と同時にGHQによって逮捕され、6ヶ月間にわたる取り調べを受けました。
彼は8年間の潜行について、記憶だけで実に正確な報告をしたと伝えられています。
並の諜報員ではなかったわけです。
冒頭でご紹介した彼の本には、こんな記述があります。
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西川氏の旅に、漢族バトという少年がついてきた。
チベットで、少年は、当時流行した天然痘を患った。
少年は、全身に発疹ができ、最後には顔の何処が鼻だか口だかわからないほど変形し、死んだ。
この時代のチベットに、薬などはない。
天然痘にかかったバド少年は、ラマ僧によって悪魔払いの儀式を受けたのである。
これが当時の唯一の治療法だった。
バドは、9歳の若さで亡くなった。
そして村はずれの死体置き場に置かれ、翌日には鳥につつかれ狼に食べられて骨だけになった。
世界はそれほどまでに貧しかった。
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戦前の世界を、いまの価値観、世界観で把握したら、大きな間違いをします。
東亜は収奪され、餌食にされ、貧しかったのです。
白人女性がお菓子をばらまく。
するとアジア人の子供達がお菓子を拾いに群がる。
まるで鳩の群れに餌をバラまく姿です。
東洋人種は、野生の鳩と同じでしかなかった。
西川氏は、その後インドに向かいました。
お金はありません。
食事はラマ僧としての托鉢です。
もちろん汽車には無賃乗車です。
ところがカルカッタ駅の改札口で、彼は、インド人の駅員に呼び止められます。
「そこのラマ僧、チケット(切符)を出しなさい!」
切符もお金もありません。
だから黙秘しました。
数時間の後、無罪釈放された。
ラマ僧の無賃乗車は、当時としてはあたりまえだったそうです。
もうひとつ付け加えると、インド人というのは、わりと清潔好きです。
ところがラマの托鉢僧は、着の身着のままで沐浴もしない。
当時のインドの駅員たちは、ラマ僧の発する悪臭にも閉口したそうです。
釈放されたものの、西川氏には泊まる宿屋はありません。
そういう人が、インドにはゴロゴロしていた。
インドの駅は、夜になると無料の宿泊所となっていたのです。
この光景は、戦後間もない頃の日本も同じです。
上野の駅は、夜になると故郷に帰れない乞食の宿泊所となっていました。
ある日、たまたまお金の托鉢を受けた西川氏は、カルカッタの安飯屋で、軍服姿に身を固めたチャンドラ・ボースの肖像額を見ます。
そこで彼は、おもわず「チャンドラ・ボース万歳!」と叫びました。
客たちは驚き、
「ラマ僧、お前はチャンドラ・ボースを知っているのか」と尋ねます。
西川氏は答えた。
「知らないでどうしよう。私はアジア人です。アジア人であって、アジアの英雄チャンドラ・ボースを知らない者が、どこの世界にいるのですかっ!」
その思いは、なにも西川氏だけの固有のものではなかったのです。
当時、外地で働いた日本人、共通の思いでした。
日本だって貧しいのです。
けれど、日本を出て外地に行くと、当時の貧しい日本では考えられないくらい、もっと貧しい生活がそこにありました。
一生働いても、すべてを植民地政府に奪い去られてしまう生活がそこにあったのです。
家畜以下の生活状況におかれている。
植民地として支配されたアジアの人々が、一日も早く人間としての生活が送れるようにしたい。
多くの日本人が貧しい中で、そのために必死の努力をした。
それが誇りでもあった。
そして世界も日本に期待した。
インドの革命家であるチャンドラ・ボースも、その中のひとりでした。
チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)は、明治30(1897)年生まれのインド独立運動家です。
彼は、インド国民会議派議長であり、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官です。
インド独立の指導者でもある。
2012年のいま、インドの国会議事堂の正面には、チャンドラ・ボース、ガンジー、ネルーの肖像画が掲げられています。
中央がボースです。
右がガンジー、左がネルーです。
インドの人たちにとって、いかにチャンドラ・ボースが大きな存在かがわかろうかと思います。
ガンジーとチャンドラ・ボース
チャンドラ・ボースとガンジー

チャンドラ・ボースは、大東亜戦争のとき、密かにインドを脱出して、アフガニスタン経由でソ連に向かいました。
インド独立運動への支援を、革命を成功させたソ連に要請するためです。
しかし彼は、スターリンにそれを断られています。
スターリンの意思は、インドの「支配」にあり、自尊・独立にはなかったからです。
やむなくボースは、ナチス政権下のドイツに亡命して、ヒットラーや、ムッソリーニに独立運動への支援を要請しました。
けれどヒトラーは、こう答えたそうです。
「インドは、独立にあと150年はかかる」
スターリン(ソ連)、ヒットラー(ドイツ)、ムッソリーニ(イタリア)という名だたる指導者たちに支援を断られたボースは、ドイツでインド人の仲間を集め、インド旅団(2,000人)を結成します。
そしてベルリンから、反英ラジオ放送を開始した。
その放送を聞いて、支援を決めたのが、東条英機でした。
昭和16(1941)年のことです。
そして東条英機は、同盟国であったドイツに要請し、チャンドラ・ボースを日本に招いたのです。
ボースは、ドイツ海軍の潜水艦Uボートでフランス大西洋岸のブレストを出航します。
そしてインド洋で、日本の伊号第二九潜水艦に乗り換え、来日した。
ボースは、日本の支援を得て、シンガポールで「自由インド仮政府」を結成します。
そして初代首班に就任しました。
これがいまのインド政府の誕生です。
そして英領マラヤ、香港等で捕虜になったインド兵を中心に「インド国民軍」を結成し、その最高司令官にも就任する。
こうした活動には、たくさんの費用がかかります。
その一切を、日本は支援したのです。
さらに「インド国民軍」の兵士たちへの訓練も、日本は行っています。
昭和19年、自由インド仮政府を立ち上げたボースは、日本にラングーン侵攻のためのインパール作戦を嘆願しました。
自由インド軍がインド領に姿を現せば、自由を求める各地のインド人が隆起すると信じたからです。
しかし当時の日本は、ボースの進言を受け入れるだけの軍事的余力がありませんでした。
インド人の蜂起だって、実際にはあるかどうかわからない。
インパール作戦は、日本では功名にはやった牟田口中将の無謀な作戦などと言われているけれど、実際には、チャンドラ・ボースのインド侵攻への熱意と、蒋介石ルートの遮断を狙った、大本営発の一大反抗作戦です。
成功すれば蒋介石ルートの遮断によってシナの国民党の軍備補給の一切を断つことができ、インドの独立を支援し、イギリスに致命的な打撃をあたえることができる。
決して無謀でバカな戦いではなかったのです。
そして昭和19(1944)年、ついにインパール作戦の実施命令が出されます。
チャンドラ・ボースは、この報を聞くと、
「ついに日本軍とインド国民軍が手を携えてインドに進軍するときがきた」と叫んだといいます。
インパール作戦に、日本は9万の将兵を投じまました。
インド国民軍の4万5千名も参加した。
しかし折からの暴風雨と、補給の不足で日印連合軍は、敗北しました。
日印連合軍の戦死38,000名、戦病40,000以上の損害です。
敗れた日印の兵士たちが帰投した街道筋には、途中で亡くなった日本の将兵の白骨が連なった。
この街道は、後年「白骨街道」と呼ばれています。
以前にも書きましたが、この街道筋には地元の村人たちの集落が点在しています。
民家があり、畑があり、家畜もいる。女もいた。
しかし現在に至るまで、それら村人や家屋、家畜や畑、そして女たちが日本兵によって蹂躙されたとか、略奪されたとかいう被害の記録は、ただの1件もありません。
怪我に苦しみ、マラリアやテング熱、赤痢に罹患し、食べ物もなく、飢えに苦しみながら、徒歩で帰投する日本兵は、だれひとり、村人たちを襲ったりしなかったのです。
食べ物を略奪、窃盗することもなかった。
そして彼らは死んでいきました。
盗んでいれば、略奪していれば生き延びれたかもしれません。
だって、武器を所持しているのです。
いくらでも襲うことができた筈です。
にも関わらず、彼らはそうした非道を一切しなかった。
なぜか。
彼ら将兵のひとりひとりの心の中に、アジアの平和と独立のためなのだという強い誇りと信念と覚悟があったからです。
若き日の私たちの父祖たちにとって、武力で威嚇して食べ物を奪ったり、殺したり、女を犯したりすることなどしないということは、ただの「あたりまえ」のことだったのです。
残念なことに、白骨街道の遺骨収集は十分に進んでいません。
本来、日本国の国家予算で遺骨収集を行うべきです。
さて、2009年1月27日、次のような記事が報道されました。
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自力で日本兵の遺骨収集を続け、自宅には慰霊塔を
インパール作戦などに参加した未帰還兵の藤田松吉さん死去 90歳
http://blog.livedoor.jp/far_east_news/archives/134075.html
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元日本兵でありながら日本へ帰還せず、タイ北部で仲間の遺骨収集を行ってきた藤田松吉さんが25日,亡くなりました。90歳でした。
関係者によりますと、藤田松吉さんは25日午前、入院先のタイ北部ランプン県の病院で、肺炎のため息を引き取ったということです。
長崎県出身の藤田さんは、19歳で第二次世界大戦に従軍し、当時のビルマで展開されたインパール作戦などに参加しましたが、戦後も日本へは帰還せず、タイ国籍を取得してタイ北部のチェンマイで暮らしていました。
インパール作戦では3万人以上の日本兵が命を失いましたが、藤田さんは自力で日本兵の遺骨収集を続け、自宅には慰霊塔を建てていました。
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自民党は左翼政権だったという人がいます。
自民党が、日本人の政党であり、日本の歴史・伝統・文化を尊重する政党であるならば、日本のために戦い、どんなに苦しくても、自分の命を落としてまでも略奪ひとつ行わなず散っていった誇り高き英霊たちの遺骨収集くらい、なぜ政権与党としてやってこなかったのか。
それができない政党であるなら、そんなものは左翼政党にほかならないというのです。
すくなくともこの遺骨収集に関しては、ボクもまったく同感です。
すみません。話が脱線しました。
インパール作戦の敗退、そして終戦を迎えたチャンドラ・ボースは、日本と協力してインド独立を勝ち取るという道を閉ざされます。
しかし彼はあきらめなかった。
彼は、次の時代の東西冷戦を予想し、インドの支配者であるイギリスと戦うためにに、ふたたびソ連に協力を要請しようとしたのです。
そしてソ連に向かおうとしたとき、台湾の松山飛行場で搭乗した九七式重爆撃機がエンジン・トラブルで墜落しました。
チャンドラ・ボースは、火だるまになって全身に火傷をおって死去します。
昭和20(1945)年8月18日のことでした。
享年48歳でした。
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インドは自由になるだろう。
そして永遠に自由なのだ。
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チャンドラ・ボースの臨終の言葉です。
いま、チャンドラ・ボースの遺骨は東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺で眠っています。
蓮光寺にあるチャンドラ・ボース胸像
蓮光寺にあるチャンドラ・ボース胸像

インドは、戦後も日本に対して厚い友情を示してくれました。
極東軍事裁判で連合国側が日本を弾劾しつづけるなか、インド代表のパール判事は、ただ一人日本の無罪を主張してくれました。
インドは日本に対する懲罰的な条約に反対し、サンフランシスコ講和会議への参加を拒否しています。
インドは日本に対する賠償も放棄してくれました。
そしてインド独立運動家のマハンドラ・プラタップ氏は世界を相手に、
「日本に対してこそ賠償を払うべき」
という「逆賠償論」を主張したのです。
昨今の日本の企業は、やたらにChinaに進出します。
そしてどの会社も損ばかりさせられています。
日本人は、反日思想に凝り固まったChineseたちに、いつまで騙され続けるのでしょう。
投資するなら、親日国であるインドにこそ投資を考えるべきなのではないでしょうか。
冒頭の西川氏は、インド滞在中に、チャンドラ・ボースが<インドの救世主>と仰がれているのを身をもって知ったのだそうです。
デリー方面に向かうプラットホームでインド軍の将校団に囲まれ「コンニチワ」と日本語で挨拶され、危うく日本人と見破られそうになった。
ところがその将校団は、なんとチャンドラ・ボースの勇敢なインド独立軍のメンバーだった人たちでした。
彼らは、日本人を心底、尊敬していたのです。
だからラマ僧に扮した西川氏を、ひと眼で日本人と見破りました。
それだけ彼らの日本に対する憧憬が深かったのです。
日本が終戦を迎えたとき、まだインドを植民地支配していた英国は、チャンドラ・ボースが組織したインド国民軍の将兵全員を戦犯として軍事裁判にかけ、全員に死刑を宣告しました。
この時にガンジー、ネール以下、インドの国民会議、学生、労働者たち民衆は、インド独立軍の無罪を主張して闘争を行ないました。
そして独立軍の将兵たちは、死刑ではなく、懲役15年の刑となりました。
けれど、インドの民衆は、それで満足などしませんでした。
彼らは尚も戦い、ついには裁判に勝利し、全将兵の無罪を勝ち取っています。
そしてインド全土に広がったこの運動は、2年後のインド独立へとつながったのです。
東京裁判でインドのパール博士がただひとり戦犯無罪論を唱えたことをインド人は誇りに思っています。
彼らは、人種差別撤廃を高らかに謳いたった一国で世界を相手に正々堂々と戦いを挑んだ日本にこそ、戦争犯罪を裁く権利を認めるといいます。
戦闘の勝利者が敗者を裁くのは、単なる復讐劇にすぎないからだともいいます。
日本は、いつまでも自虐史観にしばられるのではなく、戦後66年、そろそろ目を覚まし、真実の歴史を取り戻すときがきたといえるのではないでしょうか。
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