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隠岐島
隠岐島

スマップの中居正広君が主演した映画「私は貝になりたい」。BC級戦犯の悲哀を描いた映画なのですが、この映画で使用され美しい風景・・・映画の中では高知、となっているのですが、実は、撮影場所は“隠岐島”でした。
隠岐島というのは、島根県の北方約50kmにある諸島を指します。「隠岐群島」ともいう。
4つの大きな島と、小さな180もの島によって形成されている群島です。
隠岐島の歴史は古く、はるか縄文初期から人が住みつき、本土と活発な交流があったといわれています。
その本土との交流は、いまでは「隠岐汽船」という島の海運会社が本土の間にカーフェリーと高速船を運営しているのですが、江戸から明治の初期にかけて、隠岐群島と本土との交通は、ちいさな帆かけ船しかなかった。
島は、日本海に浮かぶ孤島です。途中の波も荒く、冬場には激しい吹雪と高波が襲う。
風向きが悪かったり、海が荒れたら、本土との行来はできません。
いちばんおおきな島後と呼ばれる島でも山岳部が多く、農業には適さない。
だから、海が荒れると、米や砂糖、野菜などの食べ物が乏しくなり、島の人々は不安にさらさた。しかも連絡船は小さな帆かけ舟。荒波にのまれて、尊い人命が失なわれることもすくなくなかった。
この島にある焼火神社の後継ぎとして、松浦斌(まつうらさかる)が産まれたのが、嘉永4(1851)年のことです。
松浦斌(まつうらさかる)
松浦斌

彼の家の焼火権現は、昔から海上安全の神として信仰されていた神様だったそうです。
焼火権現は、江戸時代の画家、安藤広重の絵にも描かれているといいますから、江戸時代から北回船の聖地であったようです。
そんな神社の倅(せがれ)として生まれた、松島斌(さかる)は、父親が早逝したことで、慶応2年、若干16歳で、焼火権現の後継ぎとなります。そんな彼は、隠岐の渡し船が沈むたびに、わがことのように悲しんだ。
彼は、32歳のとき、隠岐島議会に、渡し船を従来の帆かけ舟から、蒸気船にすることを提案します。
大きな蒸気船なら、本土と楽にに交通できるようになる。そしたら島の生活も豊かになる。産業や文化の発展にもつながる。そしてなにより、島民の安全が確保される、というわけです。
ところが、蒸気船を買うには、当方もないお金がかかります。
島の他の議員たちも、
「蒸気船なんてカネがかかりすぎる」
「今までどおり帆かけ船で十分だ」と、斌の話をまったく聞き入れようとしません。
斌(さかる)は懸命に食い下がったけれど、願いは廃案にされてしまいます。
狭い島のことです。斌(さかる)の議会での話は、またたく島中に広がります。
議会の話を耳にした漁民たちは、
「蒸気船なんて、とんでもねぇ。エンジンのでかい音で、島の魚がみんな逃げちまう。わしら魚が逃げたら生活ができん」と、口々に斌(さかる)を非難した。
島の人たちのためにと願って言いだしたことです。
それが島の人たちから反対される。
斌(さかる)は、島中を敵にまわした。斌(さかる)は弱りきってしまいます。
斌(さかる)は、自分の提案がくずれ落ちるのを感じ、蒸気船のことはあきらめようと考えるようになります。部屋に引きこもり、誰にも会わなくなった。
そんな斌(さかる)のもとに、友人で初代隠岐郡長だった高島士駿(たかしまたけと)が尋ねてきます。そして斌(さかる)に、勇気を出せ、と励まします。
「島のために、俺と一緒に蒸気船を走らせようじゃないか。
島のみんなも、おまえの気持ちを分かってくれる日がきっとくる。
その日まで俺とと力を合わせて頑張ろう!!」
士駿(たけと)の力強い言葉に、斌(さかる)は、ふたたび元気を取り戻します。
そして一軒一軒、島民の家を訪ねては、島民を根気強く説得し始めた。
やがて斌(さかる)の熱意に心を打たれ、賛成したり応援してくれる島民が次第に増えてきました。
明治17(1884)年、隠岐島議会で、斌(さかる)に代わって、こんどは士駿(たけと)が、蒸気船の購入を提案します。
議員たちは反対する。
斌(さかる)はじっと議員たちの反対の声に耳を傾けていました。
やがてゆっくりと立ち上がった。
「このままでは、隠岐島は本土の発展から取り残されてしまう。
私が蒸気船購入費用の半分を出します。
たとえ損が出てもみなさんに迷惑はかけません。
出た損失は、全額私が補償します」
32歳の若い斌(さかる)の、真剣な言葉に、反対してきた議員たちもついに口を閉ざします。
斌(さかる)は、代々受け継ぎ、守ってきた山の木々を切り倒して蒸気船の費用にあて、この年の12月、英国製の立派な蒸気船を島に迎えて「隠岐丸(おきまる)」と名付けます。
初代隠岐丸
初代隠岐丸

隠岐丸の就航の日、港には、多くの人が集まりました。
喜びと歓声が島の山々にこだました。
色とりどりのテープが空に舞い上がった。
汽笛が、島に響きわたった。
斌(さかる)の目から、滂沱の涙が伝わり落ちます。
言葉もなく嗚咽をもらす斌(さかる)を、友人の士駿(たけと)がしっかりと支えていたそうです。
しかし、喜びにわいた蒸気船の就航に、容赦ない現実が襲いかかります。
隠岐丸は、96トン、20馬力の蒸気船です。
航海は月に3~5回、乗客定員は片道15人です。これが限界だった。
毎年続く赤字。
斌(さかる)は、約束通り、私財の山林を伐採して損失を補てんします。
そして心労が重なり、6年後の明治23(1890)年、斌(さかる)は病魔におかされ、38歳の若さで、この世を去ってしまいます。
しかし、
いちど点いた炎は消えなかった。
隠岐島民たちは、こんどはみんなで協力して斌(さかる)の意志を引き継いた。
そして明治28(1895)年、島の共同出資で、隠岐汽船株式会社が創設された。
いま、隠岐汽船は、2300トンクラスのフェリー3隻、高速水中翼船1隻の4隻で隠岐と境港、七類港を毎日運行しています。
しかし島の人口減少で経営状況は思わしくなく、隠岐郡の4町村で運営する隠岐広域連合が船を買い取り、2007年から隠岐汽船に無償リースして運航委託しています。
隠岐汽船は、開業以来、いまにいたるまで、一回も転覆事故を起こしていないです。
松浦斌が胸に描いた、安全な海上交通の確保、島の食料の確保、往来による産業や文化の発展という理想を、いまも立派に実現している。
そしてね、2009年の決算では、なんと38万8千人の乗客を運び、ようやく黒字が計上できるようになりました。
ひとりの人間の命がけの情熱は、落ち込んだりもするけれど、何年も、何十年もかけて、人々の支えになって生き続ける。
松浦斌(さかる)は、雲の上から、ボクたちにそんなことを教えてくれているのかもしれません。
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隠岐 西ノ島町

PS:15日、鎌倉近くの大船で、林潤(はやしじゅん)さんという前衆議院議員さんにお会いしました。
約2時間の懇談で、ねずきちが感じたのは、彼の持つひたむきな情熱とまっすぐな正義感でした。
まさに「真正保守魂」ともいうべきものを彼のひとことひとことから感じ取ることができました。
林潤さんは36歳の好青年です。
彼の持つ若さと、情熱と、子を持つ親として、子供たちに立派な日本を残したいという信念に、あらためてねずきちは新しい時代の夜明けを感じました。
で、ふと思い出したのが松島斌(さかる)です。
松島斌(さかる)は、夢半ばで散ってしまったけれど、林潤さんのような次代を担う新しい政治家を、ボクたちはこれから大きく育てていかなければならない。10年かけて、20年かけて。そんなふうに思いました。
ひとりの人間の情熱は、やがては人々を動かし、時代を変えるエネルギーになっていきます。
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