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クーデンホーフ光子
クーデンホーフ光子01

今日は、かぐやひめさんからのたってのリクエストにお応えして、クーデンホーフ光子のことを書いてみたいと思います。
実はこの光子、ヨーロッパでもっとも有名な日本人なのです。
本名:青山ミツ。
ちなみに香水で有名なゲラン社の製品に、「ミツコ」という有名な香水があります。
どこか東洋的な香りがする、淑女を思わせる、大人のための香水なのだそうです。
ちなみにねずきちは、決してつけていません(笑)
ソコッ!ニヤニヤシナイッ!!
そしてこの香水のモデルになったのが、クーデンホーフ光子です。
そのミツコという女性は、どういう人物だったのか、歴史をひもといてみたいと思います。
明治25(1892)年のことです。
日本に、オーストリアハンガリー帝国から、外交官ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵が赴任します。
伯爵は冬の寒いある日、乗っていた馬ともども凍った道で滑って転倒してしまいます。
このとき、伯爵の勤務する大使館に雇われていたミツコが、伯爵を献身的に看病した。
二人は大恋愛に陥ります。
しかし、まだまだ閉鎖的な日本社会。外国人との結婚といえば、彼らにあてがわれた現地妻という認識が強かったため、ミツコは実家から勘当されてしまいます。
またハインリヒ伯爵も、この結婚にあたって、ミツコの実家に対してかなりの犠牲を払ったといわれ、そのため後年、光子は日本に帰国しなかったなどともいわれています。
ちなみに、東京港区にある青山通り。
たいそう立派な道路ですが、この青山通りの由来となったのが、ミツコの父青山喜八です。
喜八はたいそうなお金持ちになったわけですが、もともとは骨董道楽が昂じて、本家にも勘当された身。それが一代で、大通りに名前が架せられるほどの大金持ちとなった背景には、このときかなりの結納金を伯爵から得たからだともいわれています。まぁ、親の喜八はかなりがめつい男だったのかもしれませんね(^-^;)
とにかく二人の恋愛は、周囲の猛反対を押し切っての大熱愛だった。
翌明治26(1993)年、ミツコはハインリヒ伯爵と正式に結婚します。
実は、これが日本政府に届け出された正式な国際結婚の第一号です。おめでたいお話です。
そうはいっても、当時は人種差別が公然と行われていた時代です。
しかも当時の日本は極東の未開で貧乏は一小国としてしか見られていなかった時代です。
そしてミツコは、そんな日本の、しかも平民の出身です。
ハインリッヒ伯爵は、東京・横浜に居留する全ヨーロッパ人に次のような宣言を伝えます。
「もし、わが妻に対して、ヨーロッパ女性に対すると同等の取り扱い以外を示す者には、何人を問わず、ピストルによる決闘をいどむ」
これに関して、ベルギー公使のダヌタン男爵は、次のように日記に記しています。
「決闘は一回も行われなかった。
だれも彼も、この新しいオーストリアの外交官夫人により、彼女の優美と作法により、魅了された。外交団全体が彼女に対して尊敬の念を示した。」
グーテンホーフミツコ02

ミツコは当時の日本人女性としては長身で、しかも美人です。
しかも舞姫をしていたこともあり、立ち振る舞いが非常に優美であったとも伝えられています。
洋装もよく似合いますね♪
そして夫婦は、東京で、長男ハンス光太郎、次男リヒャルト栄次郎の2人の子をもうけます。
明治29(1896)年、ハインリッヒは足かけ5年に及ぶ日本滞在を終え、帰国します。
その年の正月に二人は宮中参賀に招かれました。
ミツコが母国日本を去る前に、せめて最上の光栄の思い出を作ってやろうという、夫ハインリッヒの思いやりだったのでしょう。
このときミツコは、皇后陛下から次のようなお言葉を賜ります。
「遠い異国に住もうとなれば、いろいろ楽しいこともあろうが又随分と悲しいことつらいこともあろう。
しかしどんな場合にも日本人の誇りを忘れないように。
宮廷衣装は裳を踏んで転んだりすることがあるから気をつけたがよろしい」
なんともあたたかいお言葉です。
夫の家はボヘミアとハンガリーに跨る広大な領地をもつ伯爵家です。
ロンスペルク城
ロンスペルク城

二人は、現在はチェコに属するボヘミア地方の広大な領地の丘にそびえる古城ロンスペルグに落ち着いきます。
夫ハインリッヒは、ちょうど父が亡くなり、一族の長となったので、外交官生活から退き、大地主として領地の管理に専念することにしたのです。
しかし、夫の一族のひとたちは、東洋の未開国から連れられてきたアジア人女性に冷たい目を向けます。
小姑たちは光子の着こなしや立ち居振る舞いという末梢的なことでチクリチクリとあてこすった。
ミツコはつらさのあまり何度も日本に逃げ帰ろうと思ったそうです。
しかし、そんなときにミツコを支えたのは、「日本人の誇りを忘れないように」という皇后陛下のお言葉だったといいます。
そして
「裳を踏んで転んだりすることのないように」という一見些末な注意が、貴族社会で生きていく上で、いかに大切なことか、身にしみて分かったのだといいます。
そして二人は、その後、三男ゲオルフほか4人、合わせて7人の子宝に恵まれます。
夫、ハインリヒは、子供たちが完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ光子に日本語を話すことを禁じた。
光子は多忙な夫以外に心を打ち明けられる人間がいなくなり、強烈なホームシックにかかってしまったといいます。
ハインリヒは日本への里帰りを計画したのだけれど、当時は船旅です。
長期間幼い子供たちと離れることは難しい。
夫婦仲は良かったけれど、充分な教育を受けた夫と骨董屋の娘で尋常小学校を出ただけの妻では全く教養レベルが違い、子供たちのこと以外に夫婦でつながりを持てるものは少なかったといいます。
ある日、子供が教科書を開いて自習している時のことです。
「お母様、これは何でしたっけ」とミツコに聞いた。
ところが日本で尋常小学校しか出てないミツコには答えられない。
ミツコは、はっと思ったといいます。
「これではいけない」
ヨーロッパ人の母なら当然心得ている事を、自分が知らないのでは、日本女性の名折れである。
そこでミツコが考えたのは、自分も家庭教師について、子供より先に勉強しておき、子供から何を聞かれても答えられるようにしておく、ということでした。
さらに周囲に馬鹿にされないための語学や教養も必要です。
次男のリヒャルトは、自伝でこう回想しています。
「母は一家の主婦としてよりも、むしろ女学生の生活を送っていて、算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、フランス語、歴史、および地理を学んでいた。
その外に、母はヨーロッパ風に座し、食事をとり、洋服を着て、ヨーロッパ風に立ち居振る舞いすることを学ばなければならなかった」
睡眠時間を削ってまで、立派な母親となるために勉強に打ち込むミツコの姿は、子どもたちの心に深い影響を与えたといいます。
後にこのリヒャルトは、ヨーロッパ合衆国の実現に向けて、終生たゆみない研究と運動を続けていくことになります。そして彼の理想は、いま、欧州連合EUとして立派に実っている。
明治38(1905)年に日露戦争が起こります。
戦勝国日本の国際的地位が高まると、ミツコへの偏見もようやく和らいだのですが、翌明治39年5月に、夫ハインリヒが心臓発作で急死してしまいます。
わずか14年の夫婦生活でした。
異国に一人残された光子は、今まで二人で築いてきた世界が足もとから崩れ去っていくような気がしたといいます。
しかし、ミツコに悲しみに浸っているひまは与えられませんでした。
夫は遺書で、長子ヨハンをロンスペルグ城の継承者とする他は、いっさいの財産を光子に贈り、子どもたちの後見も光子に託されるべし、と書き残していたのです。
広大な領土と厖大な財産の管理を“未開国から来た一女性に任せるなどとんでもない”、“日本人に先祖伝来の財産を奪われてなるものか”と、ミツコは親戚一同から糾弾されます。
しかし、ミツコは断固として言いきります。
「これからは自分でいたします。
 どうぞよろしくご指導願います」
日本女性がこのような任につくには不適当だと、ミツコは裁判まで起こされてしまいます。
しかしミツコは、弁護士を雇い、時間はかかったが、とうとう訴えを退けた。
しかし相続が夫の遺言通りに行われたといっても、それだけでは相続は終わりません。
ミツコは、法律や簿記、農業経営などを、必死で勉強し、領地財産の管理を自ら立派にこなしていきます。
さらに亡夫の精神に沿って、立派なヨーロッパ貴族として子どもたちを育てようと、育児にも打ち込んだ。
長男ハンスは13歳、次男リヒャルトは12歳。
子どもたちが成年に達するまでは、日本に帰ることをあきらめよう、と光子は決心します。
しかし、表面はけなげな伯爵未亡人として、領地の管理や育児に忙しい毎日を送っていたミツコも、望郷の念はやむことはなかったといいます。
時折日本の着物を着て、何時間も鏡の前に座っている時が、最も美しく見えた、とリヒャルトは回顧しています。
また正座して毛筆で巻紙に両親宛の手紙を書くことが唯一の楽しみで、毎週一通は出していた。
 年老ひて
 髪は真白くなりつれど
 今なほ思ふ
 なつかしのふるさと
これは、ミツコの老年になってからの和歌です。
「私が死んだ時は、日の丸の国旗で包んでもらいたい」
それが、ミツコの口癖だったといいます。
大正3(1914)年、第一次世界大戦が始まります。
このとき、オーストリアハンガリー帝国と日本は敵国として戦うことになります。
両国間で実際の干戈を交えることこそなかったものの、開戦当時はヒステリックな反日感情が沸き上がった。
ウィーンにいた日本人の外交官や留学生などは、みな国外退去してしまいます。
ミツコは、広大なオーストリアハンガリー帝国に、ただ一人残る日本人となってしまった。
日露戦争の時は、オーストリア・ハンガリー帝国はロシアに威圧されていたので、日本の連戦連勝に国中がわき上がり、仲間の貴族や領民が次々とミツコのもとにお祝いにかけつけたのだが、今度は敵国となってしまったのです。
ミツコは長男と三男を戦線に送り、自らは3人の娘を連れて、赤十字に奉仕します。
黒い瞳のミツコらの甲斐甲斐しい看護に、人々は好感を抱きます。
さらにミツコは、領地の農民を指揮して、森林を切り開き、畑にして大量の馬鈴薯を実らせます。
ミツコは収穫した馬鈴薯を、借り切った貨車に詰め込んで、男装して自ら監督しつつ、国境の戦線にまで運ばせた。
前線でロシア軍に苦戦していたオーストリア軍の兵士達は食糧難に悩まされていたけれど、そんなミツコの姿に、
「生き身の女神さまのご来臨だ」
と、塹壕の中で銃を置いて、ミツコを拝んだといいます。
馬鈴薯作りは終戦まで続き、周囲の飢えた民を救うのにも役だったそうです。
大正7(1918)年に戦争が終わると、次男リヒャルトが13歳も年上の女優イダ・ローランと結婚すると言い出します。
ミツコはこれに反対しますが、リヒャルトは家を飛び出してしまう。
しかしリヒャルトは、すごい才能の持ち主だったのでしょう。
「汎ヨーロッパ主義」という本を著し、一躍ヨーロッパ論壇の寵児となります。
長男ハンスも平民のユダヤ人女性リリと結婚し、ピクシーという女児をもうけ家を去ります。
夫を失ってからのミツコは、子供たちに日本風の厳格なしつけをしようとしたために、成長した子供たちがミツコのもとを去っていったという説もあります。
ミツコは、日本では平民の娘ですが、それでも、それだけ厳しいしつけが、当時はされていたということです。
子供たちが次々と去っていくミツコに、追い打ちをかけるように、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したことによって、クーデンホーフ=カレルギー家も過半の財産を失ってしまいます。
ミツコは、大正14(1925)年に、脳溢血で倒れます。
なんとか一命はとりとめたものの、右半身が不随となった。
以後のミツコは、ウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガに介護してもらいながら、静養の日々をすごしたといいます。
そしてその頃のミツコの唯一の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことだったそうです。
現代日本人は、日本という平和な祖国に守られて暮らしながら、平気で売国や侮日、あるいは反日を気取ったりするけれど、海外に出ると日本という国のありがたみや美しさに気が付く。
ミツコの晩年も、そうした気持ちがあったのだろうと思います。
昭和16(1941)年8月、第二次世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子はオルガに見守られながら67歳の生涯を閉じます。渡欧して45年、ミツコは一度も日本へ帰らなかった
さて、ミツコのもとを飛び出した子供たちですが、本人たちがミツコの厳しさを嫌がった割には、彼らはミツコの日本式の厳しい躾と教育によって、全員が、それぞれ立派な大人に成長します。
なかでも東京で生まれた次男のリヒャルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵は、その著作で「欧州統合」を主張し、いまでいう“EU”の概念を打ち立てた人物です。
第一次大戦後、「民族独立」のスローガンの中で、オーストリア・ハンガリー帝国は分断され、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどが新国家として独立します。
そして、ポーランドやルーマニアにも領土を割譲されて、解体されてしまいます。
大戦で疲弊した上に、28もの国家がアメリカの2/3ほどの面積でひしめき合ったのです。
民族対立の火種を抱えたままでは、いずれヨーロッパに再び大戦が起こり、世界平和をかき乱す禍
の元となってしまう。
ウィーン大学を卒業していた次男リヒャルトはこう考えて、1923年、著書「パン・ヨーロッパ」を発表します。
ヨーロッパの28の民主主義国家が、アメリカのような一つの連邦国家としてまとまるべきだ、という大胆な提案です。
リヒャルトの理想に、人々は、分析を特徴とする西洋思想に対して、総合・統一という東洋的考え方を感じ取ったそうです。
そしてその著者の母は日本人であるという驚くべき事実が伝えられてくると、さまざまな新聞がミツコに新しい名称を贈りました。
「欧州連合案の母」
「欧州合衆国案の母」
「パン・ヨーロッパの母」・・・
リヒャルトの生涯をかけたた理想と運動は、その後もヨーロッパの政治思想に大きな影響を与え、続けます。
第2次大戦後のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、そして現在、ヨーロッパには、ヨーロッパ連合(EU)が誕生しました。
リヒャルトは母についてこう述べています。
彼女の生涯を決定した要素は3つの理想、すなわち、
 名誉
 義務
 美しさ
であった。
ミツコは自分に課された運命を、最初から終わりまで、誇りをもって、品位を保ちつつ、かつ優しい心で甘受していたのである。
名誉と義務と美しさ。この3つは日本人の日本的な日本人であるがゆえの美徳であろうと、ねずきちは思います。
そしてそういう美徳は、ボクたちの父祖祖先が、血を吐くような努力の中で築き上げてきた美徳です。
ボクたちは、その日本の精神を、もっと大切にしていかなければならないのではないでしょうか。
そうそう!!
ちなみに、リヒャルトは、映画にもなっています。
どの映画かというと、なんと、あの有名な名作「カサブランカ」です。
ハンフリー・ボガートと、イングリッド・バーグマンの名作!!
モロッコの都市カサブランカで、欧州の戦災を逃れた人の群れが、ポルトガル経由でアメリカへの亡命を図ろうとしていた。
そこでアメリカ人男性のリック(ハンフリー・ボガート)が、パリが陥落する前に理由を告げずに去った恋人イルザ(イングリッド・バーグマン)と、偶然の再会を果たします。
このときすでに結婚していたイルザは、ナチへの抵抗運動の革命家である夫ラズロを助けるために、リックに協力を願い出ます。
彼女の夫の逃がせば、もう二度と彼女に会えなくなってしまう。
リックは、再び目の前からいなくなってしまう女性を前にして、今でも愛していると本心を打ち明けます。
そしてリックは、愛を失っても大義を守り、二人を逃がす。
この物語の主人公に出てくる、イルザの夫のラルゴが、実は、ミツコの次男のリヒャルトなのです。
そうそう!、ちなみに(また、ちなみにだ^^;)この映画ができるとき、配給元のワーナーは、主演のハンフリー・ボガードを、若き日のロナルド・レーガンに変えようとしたのだとか。
いやはや、世界って、いがいと狭いものなのですね♪
話は、ぜんぜん飛んでしまいましたが、
名誉と義務と美しさという日本の美徳を守れ!と思う方
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