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広瀬武夫中佐
広瀬武夫中佐

日本の心をつたえる会のメーリングリストで、鷲さんが広瀬中佐のお話を紹介してくださいました。
明治の武人の、繊細で、かつ強い力を感じる文章です。
以下、ご紹介します。
出典は「 国際派日本人養成講座」からだそうです。
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【広瀬武夫とロシアの人々】
~ペテルブルグの人々に
 深い敬愛の念を与えて、
 海軍大尉広瀬武夫は帰っていった~
アリアズナ・ウラジーミロブナ・コヴァレフスカヤは18歳。
豊頬で、愛嬌のあるかわいい顔をしている。目はきらきら輝く褐色、髪は亜麻色である。
サンクト・ペテルブルクの貴族の家に生まれた。
1901年1月末、街は雪で埋め尽くされ、河も凍っていた。アリアズナの父、コヴァレフスキー海軍少将がロシアの将校たちを招待して晩餐会を開いた。ペテルブルクに留学中の日本海軍大尉広瀬武夫も招かれ、少将から武道の達人だと紹介された。
食後、別室でくつろいでいる時、日本の柔術が話題に上ると、一人の大男が突然、広瀬に右手をさし出して、さあやってごらんなさい、と構えた。
広瀬は、
「日本の柔術というものは、そんなものではありません。
私がこれから柔術の説明をいたしますから、まず椅子におかけ下さい」
と言った。
男が腰を下ろそうと、気合いが少し抜けた瞬間に、
「こんな風にやるのです」
と叫びながら、広瀬は大男の右手をとって部屋の真ん中にどしんと投げ出した。
大男が腰をさすりながら、おどけて
「日本の柔術コワイコワイ」
と言うと感嘆の声が部屋中に湧いた。
相手の虚をつくその機転、大の男を投げつける武勇が、驚くべき日本人という印象を深くきざみつけた。
「ヒロセ君に乾杯」の声があがった。
その光景を部屋の片隅で見ていたアリアズナは、物も言わず、広瀬の顔を見つめていた。自分の知っているロシアの士官たちとはなんたる違い! 貴族の士官達は、顔立ちも美しいし、やさしいが、朝は遅く、服を着るのも従者に手伝わせ、4、5時間勤務すると、夜は夜会服に身を飾って深夜までトランプや酒に猥談。身分の良いのに安住して退屈しながら日を送っている。
それに比べれば、広瀬の男らしさ、武芸の素晴らしさ! 
私は生涯、ああいう強い、それでいてやさしいお方に守られて暮らしたい。
翌日、アリアズナは広瀬のアパートを訪れた。
父母と一緒に来たことはあったが、今回は内緒だった。広瀬は軍艦の断面図を開いて、熱心にメモをとっていた。
「戦艦アサヒ」とロシア語で書かれている。広瀬は説明した。
アサヒとは、朝のぼる時の太陽のことですよ。
朝の太陽のように清らかで、若々しく、力づよいという心をこめているのですね。
私は去年4月にイギリスで完成したばかりのこの船に乗りましたが、おそらく世界で一番新式な一番大きな軍艦でしょう。・・・私の国はこういう艦を6隻も持っているのです。
広瀬は嬉しそうに目を輝かせて言った。アサヒ、ヤシマ、シキシマ、ハツセ、フジ、ミカサ、それぞれの艦の名前を繰り返して、その意味を説明した。
美しい名前でしょう。
日本は美しい国だから、日本人はみな美しいものを愛しています。
どんなに堅牢な新式の大軍艦にも、われわれは日本人の連想をかぎりなく刺激する詩のように美しいひびきをもった名前をあたえるのです。
アサギリ、ユウギリ、ハルサメ、ムラサメ、シノノメ・・・
力は強い。しかし心はやさしい。姿はうつくしい。
これが我々日本人の理想なんですね。。。。
話を聞いているうちに、アリアズナは広瀬のただ一筋の祖国愛にうたれた。
それは一つの国民の魂を信じて、それに帰依している男の信念だった。
「この人の語る言葉は、この人の行う行為は、この人の祖国の上に根を据えている。信念の人だわ。信念をもっているから強いのよ。」 恋する女性の直観だった。
アリアズナは耳までほてって、顔は美しく紅潮した。
この間にも、日露両国の緊張は高まっていった。ロシア軍部は1万5千の軍勢で満洲を制圧していた。北京から、天津、北満に続く重要な鉄道路もすべて押さえられた。
満洲でのロシア軍駐屯に関する密約を清国と結ぼうとしたが、清国はその要求を修正させたいと西洋列強と日本に調停を求めてきた。
3月24日、日本側がロシアに抗議すると、清国は急に強気になってロシア側の案を拒否する姿勢を見せた。
ロシアはとうとう満洲に関する協定を断念した。
それでも依然と満洲に居座り続ける。
その間にシベリア鉄道の建設工事は着々と進められている。
これが完成すれば、満洲開拓は一挙に進み、ロシアを押さえるのは不可能になる。
さらにロシアは、戦艦・一等巡洋艦12隻を一年で作れるほどの巨額の予算を投じて、海軍の大拡張に乗り出していた。
清国にはロシアの極東進出を押さえる力はない。
とすれば、その圧力をまともに受けるのは日本である。
いずれ満洲、朝鮮をめぐって、日露の激突が予想されていた。
その年の10月18日、広瀬に日本からの電報が届いた。
冬のシベリアを横断視察し、翌年3月までに帰国せよとの命令である。
1902年元日、広瀬と親しくしてくれていたパブロフ博士の部屋で送別の宴が開かれた。
博士の知り合いで、ボリス・ヴィルキトゥキーという青年も、自分から頼んで宴に加わった。
ボリスは優しい美青年で、海軍兵学校を卒業したばかりの候補生である。
広瀬のことを大変慕って、二言目には「タケニイサン、タケニイサン」と日本語で呼びかけてくる。
ボリスは、「タケニイサン、艦に乗ったらこれを使ってください」と、ふだん愛用していた柄のついた銅の酒杯を贈った。
「こんなに有り難いものをいただいた君とは、敵味方にわかれられませんね」と広瀬は、いつになく厳粛な顔で言った。
おたがいに戦わねばならない時には、きっと所在を知らせて下さい。
私からもお便りをあげる。
砲火の下でまみえる時は、お互いに愛する祖国のためです、全力をあげて戦い抜こう。
これが武人の本分ですから。
2年後、この誓いは現実となる。
1902年(明治35)年1月16日、いよいよ出発の日である。
その日の午前中、わずかな時間を作って広瀬とアリアズナは二人だけで密かに逢った。
アリアズナはかねて用意していた小型の銀時計を広瀬の手に握らせた。
蓋を開けると「A」の字が彫られている。
私の名前の頭文字だけど、Amour(愛)の意味も含んでいます。
いつまでもあなたのお傍において下さい。
時計の鎖には、彼女の写真を入れたロケットもついていた。
広瀬はうなづいて、チョッキのポケットにおさめた。
わたしはほんとうにタケオサンにはいのちをかけています。
駅には行きません。
今夜10時に、かげながらお立ちを見送っています。
お国へは行けますわね、そのうち、わたしだって、きっと。
黙ってきいていた広瀬は、アリズナの切ない言葉をきくと、彼女の眼を見すえてきっぱりと言った。運命が許すならばです。
その運命を予感したのかアリアズナの頬に涙が伝った。
広瀬は無言でアリアズナをひしと抱きしめた。
これが二人の最後の逢瀬となった。
1904(明治37)年1月、海軍少尉に任官したボリスはロシア最大最新の戦艦「ツェザレーヴィチ」に乗り組み、旅順港についた旨を、かねての約束通り、広瀬に手紙で知らせた。
広瀬は佐世保に集結していた連合艦隊の主力戦艦「朝日」の水雷長室で、その手紙を受け取った。
2月8日夕、旅順沖合に達した連合艦隊主力は、9日午前0時過ぎ、水雷艇10隻を港内に侵入させ、魚雷攻撃によってツェザレーヴィチを含め、戦艦2隻、巡洋艦2隻に損害を与えた。
しかし、その後、ロシア太平洋艦隊は港内に逃げ込み、要塞砲台に守られてじっと動かない。
連合艦隊は旅順港口を遠巻きにして見張りを続けなければならなかった。
この情況を打破するために、旅順口閉塞作戦がとられることになった。
港の出入り口で、大型艦船が航行できる幅はわずか91m、この狭い水路に廃船を沈めて閉塞させようというのである。
砲台からの砲撃にさらされながら、船を沈没させ、手漕ぎのボートで脱出してくる、という決死の作戦であった。
下士官兵を募集とした所、2千名を超える志願者が殺到し、その中から67名が選抜されて、5隻の閉塞船が仕立てられた。
その一隻、「報国丸」を指揮する広瀬少佐は、死地に赴く船内で、ボリスにあててロシア語の手紙を書いた。
今度、不幸にもあなたの国と戦うことになった。何ともいいようがないほど残念である。
しかし、これは国と国との戦いで、あなたに対する個人の友情は昔も今も少しも変わらない。
いや、こんな境遇にいるからこそ、却って親しみも増してくる。
平和が回復するまでは、かねて申し上げたように、武人の本懐をお互いに守って戦い抜こう。
げんに武夫は9日のひるには戦艦「朝日」の12インチ砲を指揮して、旅順沖の貴艦隊を熱心に砲撃した。
それさえあるに、今度は貴軍港を閉塞しようと願い、「報国丸」を指揮して、今、その途上にある。
さらば、わが親しき友よ、いつまでも健在なれ。
この手紙は、2月23日夕刻、通信船に託された。作戦は24日夜明け前に決行されたが、砲台と艦隊の砲撃で目指す地点には沈没させられず、作戦は失敗に終わった。
3月27日夜半、第2回の閉塞作戦が敢行され、4隻の閉塞船が突入した。
要塞砲が一斉に砲撃を開始し、港内から駆逐艦が発砲しながら向かってきた。
広瀬率いる福井丸は港口到着の直後、駆逐艦からの魚雷を受けて、沈み始めた。
敵弾が降り注ぐ中で、全員をボートで退艦させようとしたが、自沈のための爆薬に点火しようとしていた杉野孫七上等兵曹の姿が見えない。
広瀬は沈みかけている船に戻り、三度船内をくまなく探し回ったが、見つからない。
今はこれまでとボートへ移り、船を離れたその時、敵の哨戒艇からの速射砲の直撃を受け、銅貨大の肉片と血だらけの海図を残して広瀬の姿は消えていた。
福井丸の要員18名のうち死者・行方不明は広瀬、杉野を含む4人。
広瀬は死後、中佐に昇進し、軍神として祀られた。
広瀬の英雄的行為はヨーロッパにも伝わり、各国で讃歎の声を巻き起こした。
ドイツでは広瀬の肖像に漢字で「旅順口閉塞決死隊隊長、故海軍少佐、広瀬武夫」と記した絵はがきまで作られた。
広瀬の壮烈な最期はロシアのフォン・ペテルセン家にも伝えられた。
アリアズナのコヴァレフスキー家とともに、広瀬を家族同様に遇していた一家である。
ペテルセン博士は「ヒロセ君が!」と声をうるませた。
広瀬を骨肉の兄のように慕っていた長男のオスカルは、声をあげて慟哭した。
その姉、マリヤは部屋に閉じこもって泣いた。
マリヤは、広瀬の姪が切手を集めていると知って、ロシアの古切手を1500枚も集めて、別れの
日に広瀬に贈っていた。
好意などいう言葉では言いつくせない気持ちを広瀬に対して抱いていたのである。
翌1905年1月2日、広瀬と最後に別れた記念の日に、マリヤは日本の広瀬の姉に哀悼の手紙を送った。
弟御のタケオサンの御逝去は、私どもにとりましても大きな喪失でございました。
私どもは深い悲しみをあなたとともに致しております。・・・
私どもはあの方の情け深く誠実なお心を決して忘れることはございません。
あの方は本当に偉大で、高貴な、たぐい希なお方でございました。・・・
御存知のことかとは存じますが、奥様、タケオサンは殆ど私どもの家族の一員だったのでございます。
そしてご自身でもたしかに私どもの家を居心地よく感じておいでになりました。
クリスマスと新年と、過ぐる数日のあいだ私どもはあの方の思い出とそのお姿とを心によみがえらせては又新たな悲しみにふけったのでございます。・・・
それにしましても、おそらくは御家族の方々にとって唯一の慰めとなる思いは、あの方が、御自身からお望みになっていた通りの立派な最期をお遂げになったということでございましょう。
あの方は、愛する、尊い祖国のために英雄として死んでゆかれました。
そしてあの方の思い出は永遠に、歴史の中に、御家族の心の中に、又多くの友の心のなかに生きつづけてゆくことでございましょう。・・・
深き敬意を以て
マリア・ペテルセン
サンクト・ペテルブルク
1905年1月2日
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広瀬中佐の物語は、沈没する船の中で、部下である杉野上等兵の身を案じて単身捜索し、敵弾に倒れたというだけではない。
広瀬中佐が、深い愛国心を持ち、その愛国心が、国境を越えて共鳴し合ったという事実と、共鳴し合いながら、全力で戦い、散って行かれた、その人生そのものに深い感動があるのだと思います。
昨今、海外に出かける日本人は多いです。
また、海外から日本においでになる外国人の方も多い。
そうした文化や伝統の異なる方々と、真に深い人間関係と信頼を築くためには、私たち日本人は、単に相手の文化や主張に迎合するだけでなく、日本の素晴らしさ、日本の伝統、日本の美意識をちゃんと主張できるだけの教養は、ボクは絶対に不可欠だと思う。
大東亜戦争が終わり、日本に占領軍から与えられた日本国憲法という名の条約が与えられてから、63年が経ちます。
思い返せば、戦後の日本の価値観は、そのすべてを貨幣価値に換算して“いくら”と数えるところに至った。
それが日本の価値観になったから、日本の縮図である国会は、議員さんたちが銭勘定をする場になって行ったといえるかもしれません。
しかし、カネの前に、生きる哲学というか、やはり人としての美意識はとても大切なものだろうと思うのです。
実はねずきちは、10月3日、主権回復を目指す会代表の西村修平さん、日本女性の会そよ風の涼風会長、日本を護る市民の会の黒田会長らとお会いしてきました。
とても素晴らしい出会い、語らい、意見交換ができ、非常に有意義な一日だったと思います。
西村修平氏は、よーめんさんのご紹介で訪問させていただきました。
約2時間が、あっという間に感じる感動の対談でした。
なかでもねずきちは、西村氏の「日本の保守は死んだ。我々はすでにレジスタンス(抵抗)運動となっている」というお言葉に、非常に考えさせられました。
日の丸を愛し、君が代を愛し、教育勅語の精神を大切な指針として生きるという日本人の、つい最近まで“あたりまえ”だった日本人の価値観は、いまや少数派の意見にすぎないものになっている!
まさにこれは一大事です。
そうした認識の上に立って、正しいものを正しいと主張し、間違っているものには断固抵抗する。
西村氏の活動は、ねずきちには、男として実に立派なものと感じました。
日本女性の会「そよ風」さんは、涼風会長様以下4名の皆様、並びに日本を護る市民の会の黒田会長様とお会いさせていただきました。
日本の心をつたえる会からは、ねずきちと、Layさん、bbさんの3人がお伺いしました。
そして約1時間半の懇談で、今後、相互に協力して日本のために、そして子や孫の未来のために、活動していくこととしました。
基本的に、ねずきちらが主宰する「日本の心をつたえる会」は、日本の近代史を中心に、日本の素晴らしい歴史を語る草の根運動です。
政治団体というより教育啓蒙団体に近いものといえます。
根底にあるのは、日本を愛するという思いです。
会派ごとに、その思いを具現化する方法は違っても、根っこにある想念は同じです。
ねずきちは、10月以降、全国のいろいろな保守系会派の皆様とお会いし、お互いに連携・協力できる道を探っていこうと思います。
そうすることで、真正保守が、日本の中で大同団結し、新しい、そして凛とした誇りある日本を1日でも早く取り戻せるよう活動していきます。
広瀬中佐が命をかけて守った日本。
日本という国は、そうするだけの値打が絶対にある国だと信じているからです。
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