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キハダの木(別名シコロの木)
シコロの木

キハダという木(ミカン科)があります。
日本全土で、どこでもみることができる木です。
樹高は10m~15m程度で、20m以上になるものもあります。
樹皮からコルク質を取り除いて乾燥させると、生薬の黄檗(おうばく、黄柏)になります。
黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用があります。
主に健胃整腸剤として用いられますが、強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられるそうです。
これは、薬用のほか染料の材料としても用いられます。
キハダは黄檗色(きはだいろ)ともよばれる鮮やかな黄色の染料で、黄色に染め上げる以外に赤や緑色の下染めにも利用されます。
なかでも、紅花を用いた染物の下染めに用いられるのが代表的で、紅花特有の鮮紅色を一層引き立てるのに役立つのだそうです。
キハダは木目がはっきりしているため、家具材などにも使用されます。
つまり、キハダは、とっても役に立つ“木”です。
そのキハダの木のことを、アイヌ語で“シケレペニ(sikerpeni)”といいます。
北海道に住むようになった人々は、これを日本語流に“シコロの木”と呼びました。
このシコロの木が、とても多くの人々の人命を救助したことがありました。
明治45(1912)年3月19日のことです。
北海道の札幌市の西側、積丹半島の東側にある古平町で、衝撃的な海難事故が起きました。
前日からの激しい風と大波で、古平湾に避難していた第二出羽丸(500トン)のいかり網が切れ、強風にあおられて厳島神社下の浅瀬に乗り上げてしまったのです。
船には、漁師や乗組員合わせて180人が乗っていました。
警察や消防を始め、町の人々が駆けつけ全力で救助にあたりますが、激しい風雨と大波で、船体は傾き、寒さのなかで乗員の生命も危険な状態になってしまいます。
そこで救助隊は、陸と船の間にロープを張り渡してかごをつるし、それを使って乗員を船から助けようとします。
 
船からロープを結んだ木樽を岸に流して、これを陸で受け取る。
しかし木樽は、波に洗われ、なかなか岸に届きません。
時間だけが、刻々と過ぎてゆく。
乗員の生命は、ますます危険な状況に晒されます。
もはや一刻の猶予もならない。
すると、そのときです。
カネコの一郎というひとりの若者が海に飛び込みます。
一郎は、荒れる海を泳いで、ロープを拾い上げた。
岸辺のみんなは、さっそく拾い上げたロープに、さらに太いロープを結び付け、船と裏山の崖っぷちに生えていたシコロの大木との間に張ることに成功しました。
そしてロープに竹かごをつり下げ、人を乗せて船に乗っていた人を次々と救助したのです。
途中で波にたたかれて振り落とされるということもありました。
雪どけの冷たい海、激しい波のなかでの勇敢な救助活動と懸命な看護。
乗員は、全員、無事に救出されます。
ロープにかごをつり乗員を救助する
シコロの木02

このニュースは海に生きる者の勇気を示す美談として広く報道されました。
当時の報道は、こうした美談も積極的に報道したのですね。(現代とは大違い?)
やがて時が移り、昭和59(1984)年12月。
古平町の港町町内会に、函館に住む佐藤亀治さんという人から、1通の手紙が届きます。
佐藤さんは、第二出羽丸海難のときに自分の母親も無事救助されたということで、町内会を通じて神社に何回も寄付金を送ってくれていたのです。
そして手紙は、記念碑建設についての依頼でした。
海難当時、母親のツルさんは二十歳でした。
ツルさんは、町民の必死の救助活動により九死に一生を得て、懸命の看護をによって一命をとりとめたことをつねに家族に語り、感謝の気持ちを終生忘れなかったそうです。
「その母も今は亡くなり、自分も役所(函館港湾事務所)を退職するので、この際せめてもの恩返しをしたい」
それが佐藤さんの手紙でした。
港町町内会では、横川幸男神社委員長を中心にこの計画を進めることになりました。
建てる場所は、海を見渡せる事故とゆかりのある厳島神社境内とし、記念碑の形なども協議して決められました。
記念碑は遭難者救出の主役となったシコロの木にちなんで、「シコロの碑」と命名されました。
題字は小樽海上保安部の伊美克巳部長が揮毫されました。
除幕式は、昭和60(1985)年9月16日。
厳島神社例祭の前日に畑澤町長や港町町内会、その他関係者多数が出席して行われ、その席上で佐藤亀治さんは
「今は亡き母親の供養と、73年前、必死に救助にあたっていただいた古平町民に感謝します」とご挨拶されました。
ところで、シコロの木はその後どうなったのでしょう。シコロの木について沢江町の山条カズさんが、幼い頃の思い出を次のように話しています。
「子どものころ、そのシコロの木のあたりで遊んだことがありましたが、その木は倒れてしまって、根は腐ったまま残っていました。
ふた抱えくらいもある大きな木でした。
また磯の掘割りに死体が上がったそうで、そこでは泳ぐな、と父にいわれた記憶があります」
実は、遭難事故のあった後、シコロの大木の木肌をけずり「人命救助の木」と書き入れられていましたが、そこから腐れが入って倒れてしまったのです。
しばらくはそのままでしたが、昭和50年ごろになって由緒あるこの木を、このまま腐らせてしまうのはしのびないということで、残っていた根元を掘り起こし、厳島神社のなかに保存しておいたそうですが、残念ながら痛みがひどくなって処分されてしまい、今は何も残っていません。
その後、「二代目シコロの木を植えては・・・」という話が持ち上がり、平成5年に記念碑の後に植えられたのが現在のシコロの木なのだそうです。
(以上、出典北海道古平町ホームページより)
キハダ(シコロ)はとっても、人々の役にたつ木です。
そして多くの人命を救ったシコロの木は、倒れてしまいました。
しかし、人々の心の中にあった感謝の思いは、二代目シコロの木となって、いまでもみんなの心の支えとなっています。
人種差別撤廃を主張し、世界を相手に戦った日本は倒れてしまったけれど、人々の心の中に、正しく堂々と生きようとする気持ちがある限り、日はかならず、また昇る、とねずきちは思っています。
ちょうどシコロの木のように。
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