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大山捨松
大山捨松

以前、このブログで明治の陸軍元帥“大山巌”の記事を書きました。
記事URL=http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-560.html
マッカーサーが、最も尊敬した日本人。
そして日本の軍人の銅像が次々とGHQの手によって壊されていく中で、マッカーサーが特命で銅像を保存したのが、大山巌元帥です。
その記事の最後の方で、ねずきちはこんなことを書きました。
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1916年、愛妻に看取られながら、大山巌は、74年の生涯を終えます。
危篤状態で、意識朦朧の中、大山はしきりに「兄さぁ」とうわごとを言っていたそうです。
妻の捨松は、「やっと西郷さんと会えたのね」、夫にそう語りかけた。
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今日の記事は、その捨松です。
つまり、大山巌の奥さんのお話です。
じつはこの奥さん、ただものじゃない。
日本初の女性留学生であり、日本の女子教育の向上に尽力した人であり、鹿鳴館の花であり、津田塾大学の開祖でもあるのです。
今日は、そんな大山捨松のお話です。
夫の大山巌は、いわずと知れた薩摩藩士です。
そして妻の捨松は、実は、会津藩家老職 の家柄の女性です。
そのふたりが、どうして結婚することになったのか。
まずは、捨松の幼少期から見ていきたいと思います。
捨松は、会津藩(いまの福島県会津若松市)のご家老、山川尚江重固の末娘として生まれます。
幼名は“さき”といいます。
“さき”が10歳のとき、会津戦争が起こります。有名な白虎隊の死などがあった、薩長対会津藩の戦争です。慶応4(1868)年の出来事です。
このとき、会津攻めを担当したのが、板垣退助率いる新政府軍です。
“さき”は家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝います。
城内で女たちは、建物内部に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄って、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐという「焼玉押さえ」という作業をした。
破裂したら命がない。10歳の“さき”も、これを手伝った。大怪我をした。
このとき、“さき”ら女たちは、みんなで約束をしていたといいます。
誰かが負傷したら、武士の情けにならってその者の首を切り落とす・・・
足手まといにならないためです。
そしてすぐそばでは、大蔵の妻が重傷を負って落命した。
兄嫁も、砲撃を受け、大けがをした。
兄嫁は、“さき”たちの目の前で兄嫁は苦しんでいる。
もはや助かる見込みはない。
兄嫁は、絞り出すような声で「母上、みなの者、どうか私を殺してください。わたしたちの約束です。お忘れですか。あなたがたの勇はどこにいったのです。早く殺してください。お願いです」と頼みこんだ。
しかし、母はすっかり動転して、約束を守る勇気を出せなかった。
そして“さき”をことのほか可愛がってくれた兄嫁は、苦しみながら血まみれになって絶命した。
“さき”は、幼心にこの姿を脳裏に焼き付けたといいます。
幼くして地獄を体験し、もはや生きるうえでの怖いものはなくなっていた。
このとき、このとき会津の城に、その大砲を雨あられのように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長が、西郷隆盛の従弟にあたる薩摩の大山弥助という男だった。弥助は後に“巌”と改名します。
薩摩と会津・・・この怨念ともいうべき両藩の二人が、運命の糸に導かれて結婚し、生涯を共にする。そして二人は、藩というちいさな国家観を捨てて、日本を近代国家にしようという、ひとつのシンボルのような存在となっていきます。
会津藩23万石は、この戦いで降伏し、陸奥斗南3万石に転封されます。
斗南藩というのは、下北半島最北端の不毛の地です。恐山などがあるところです。
3万石とは名ばかりで、実質石高は7千石足らず。
藩士たちの新天地での生活は極貧を極め、飢えと寒さで命を落とす者が続出した。
“さき”も、着物一枚で、食べものもない生活を送ります。
そして“さき”は、海を隔てた函館の沢辺琢磨のもとに里子に出されます。
会津戦争の3年後、アメリカ視察旅行から帰国した黒田清隆は、アメリカに留学生を送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせようと提案します。
アメリカの西部の荒野で、男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人の男女の姿をみた黒田は、留学は当初から男女若干名という意識でいた。
黒田のこの案は、やがて明治政府主導による10年間の官費留学という大掛りなものとなった。
そして、満11歳になっていた“さき”は、この留学に応募した。
“さき”は、こうして横浜港からアメリカに向けて出発することになった。
母の“えん”は、このとき
「娘のことは一度捨てたつもりでアメリカに送る。だけど学問を修めて帰ってくる日を心待ちに待つ」・・・だから捨てて待つ・・・捨て松・・・
そう言って“さき”に「捨松」と改名させます。
1871年11月12日、山川捨松となった“さき”は、日米両国の旗を掲げた郵便船で、アメリカに向けて船出します。明治政府が樹立して、わずか3年後のことです。
そして山川捨松が出発した翌日、同じ横浜港から、スイスのジュネーヴへ向けて留学の旅に出るひとりの若者がいた。
それが、大山弥助改め、大山巌です。
結局、捨松となった“さき”は、11年間もの長きにわたり、米国に滞在します。
最初の滞在先は、アメリカ、コネチカット州ニューヘイブンのリオナード・ベーコン牧師宅です。彼女はここで4年近くを過ごします。
ベーコン博士という人は、当時アメリカで奴隷解放の運動家として有名だった人で、地元の人たちの尊敬を信頼を集めていた。
そしてベーコン博士は、捨松を「お客様」としてでなく、ひとりの娘として惜しみない愛情を注いでくれた。捨松は、16歳のとき洗礼を受け、英語を習得します。
ベーコン家には、14人兄妹がいたのだけれど(子だくさん!)、アリスという末娘がいた。
アリスは、父親の影響で、中学生のころから人種差別と闘い、黒人たちの教育に打ち込む女性だった。
アリスは、捨松より2つ年上だったのだけれど、二人は生涯の親友になる。
そして闘うアリスの姿を観た捨松は、ひそかに帰国したら自分も日本で、女子のための学校を作ろうと決意したといいます。そしてそれはアリスと捨松二人の生涯の夢となる。
25年後、二人は一緒に留学していた津田梅子とともに、生徒数10名で女学校を設立します。それがいまの津田塾大学です。
捨松は、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を卒業後、ニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学に進学します。
ヴァッサー大学は、は全寮制の女子大学で、ジーン・ウェブスターやエドナ・ミレイなど、アメリカを代表する女性知識人を輩出した名門校です。
東洋人の留学生などは、めっちゃ珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かないサムライの娘“Stematz Yamakawa” は、すぐに学内の人気者となった。
それにも増して、捨松の端麗な美しさと知性は、同学年の他の学生を魅了して止まなかったそうです。
なんと大学2年時には、学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった学生のみが入会を許されるシェークスピア研究会や、真実を愛する者の会(Philalethes Society)にも入会した。
捨松の成績はいたって優秀で、学年3番の通年成績。
「偉大な名誉」(magna cum laude) の称号を得て卒業。
卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行ったが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来だった。
アメリカの大学を卒業した初の日本人女性は、この捨松だったのです。
大学を卒業した捨松は、米国留学の滞在延長を申請し、コネチカット看護婦養成学校に一年近く通い、上級看護婦の免許を取得します。
そして捨松は、この前年に設立されたアメリカ赤十字社にも強い関心を寄せる。
すこし後の時代になりますが、大山巌と結婚した捨松は、結婚の2年後、政府高官の夫人数名と、京律東京病院(いまの東京慈恵会病院)を見学します。
彼女がそこで見たものは、男性の看護師が、女性の病人の世話をする姿だった。
アメリカで育った彼女には考えられないことです。
驚いた捨松は、院長に質問します。
「女性のほうがきめ細かな看護に向いているのではありませんか? 病人にしても女性の方が気持ちが和むのではありませんか?」
ところが院長の答えは現実的なものだった。
「経費不足で女性看護婦養成所を作れないのです」
これを聞いた捨松は、看護婦養成所の設立を目的としたバザーを鹿鳴館で開催する計画をもちます。
いまでは全国どこででも見られるバザーだけれど、当時の日本には、そんなものはない。
ましてや当時の日本では、カネというのは士農工商の身分制度で、もっとも低い身分の商人が扱うものというのが、いわば“常識”だった。
そういう社会の中で、上流階級の令嬢たちがお店を開いて商人のまねごとをするわけです。
彼女は挑戦します。上流階級の夫人たちのもとを訪問し、説きに説き、語りに語ります。
そうして3ヶ月後、日本初の上流階級令嬢たちによるバザーが、鹿鳴館で開催された。
わずか3日間のバザーだったけれど、入場者数は1万2千人。当時の日本の人口はいまのおよそ4分の1ですから、いまなら5万人が集ったバザーといえるかもしれない。
販売収益金は、当初の目標の千円をはるかに超え、なんと8千円にもなった。
大学教授の給料が30円の時代です。
いまの相場なら、3億円近い売上収益になった。
そして捨松は、その収益金を全額、共立東京病院に寄付します。
これがもとになり、日本初の女性看護婦養成学校が誕生します。
いま、病院にいくと看護婦さん(いまは看護師さん^^;)があたりまえのようにいるけれど、彼女達がいるのは、実は捨松という、素晴らしい日本女性がいたから、といえるかもしれません。
話が前後して、申し訳ない(笑)
会津出身の捨松と、薩摩藩出身の大山巌が、なぜ、どのようにして出会い、そして結婚したのか。きっと、ご興味ある方もおおいかと思います。
大サービスで、それも書いちゃいます^^b
まずは、大山巌です。
彼は、ジュネーヴに留学したのだけれど、1873年、征韓論に端を発した明治の政変で、政府の半分近くが下野し、鹿児島で武装蜂起の噂が立ちはじめます。
大山巌は、わずか留学3年で日本に帰国する。
帰国後すぐに西南戦争となり、大山巌は、従兄の西郷隆盛に泣いて弓を引きます。
西郷が戦死。
後を追うよう大久保利通が暗殺。
大山巌は、従弟の西郷従道とともに薩摩閥の屋台骨を背負う立場に置かれます。
大山は、以後、明治政府の要職を歴任。
参議陸軍卿、伯爵となり、同じ薩摩の吉井友実の長女沢子と結婚して3人の娘を儲けます。
ところが沢子は、3女の出産後、肥立ちが悪く死去。
大山の将来に期待をかけていた舅の吉井友実は、わが子同然に可愛がっていた巌のために、後添えとなる女性を探します。
そして白羽の矢が立ったのが捨松だった。
当時の日本陸軍はフランス式兵制からドイツ式兵制への過渡期という難しい時期にありました。
フランス語とドイツ語を流暢に話す大山巌は、列強の外交官や武官たちとの交渉に、通訳なしであたることができたのだけれど、当時の外交の大きな部分を占めていたのが、昼間の公式会談ではなく、夜会や舞踏会だった。
ぜんぶ、夫人同伴です。
そこで、アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松が、大山の夫人として、当時最適の候補となった。
一方、アメリカから帰国したばかりの捨松は、大学での教職の道を希望するのだけれど、当時の文部省が、これを許さない。理由は、彼女が女性だから。
当時はまだ女性の社会進出には途方もない険しい山が立ちふさがっていたのですね。
失意の捨松は、もうあきらめて結婚するしかないかな・・・と思いはじめます。
そんな折に、吉井のお膳立てで、大山と捨松が初めて会ったのは、捨松と一緒にアメリカに留学した永井繁子の結婚披露宴でのことだった。
大山巌は、一目で恋に落ちてしまいます。
パリのマドモアゼルを彷彿とさせる、捨松の洗練された美しさに、大山はすっかりとりこになってしまう。
ところが、吉井を通じて縁談の申し入れを受けた山川家では、この縁談を、即時に断ります。(もしこれで二人の結婚が破断になっていたら、日本に女性看護婦は誕生しなかったかもしれない!@@)
山川家にしてみれば、相手の男性は、誰あろう、あの会津戦争で、会津若松城に砲弾を雨霰のように打ち込んでいた砲兵隊長本人です。
冗談じゃない! あの砲弾のためにいったい何人の人間が死んだんだ。仇敵じゃねーか!
しかし、大山巌は粘ります。
吉井から山川家に断られたことを知らされると、今度は農商務卿の西郷従道を山川家に遣わして説得にあたってもらった。
山川家の当主の、
「山川家は賊軍の家臣ゆえ・・・」という逃げ口上に対し、西郷従道は、
「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内でごわす」と説得した。
そして従道は、大山のために、連日、ときには夜通しで、山川家に通い、説得した。
「いまの日本は、日本人同士が敵だ味方だといって争うべきときではありもさん。一般の人の模範になるように、昔の仇敵同士が手を握り、新しい日本の建設にあたるべきなのです」
西郷従道の礼儀正しく、真剣な説得は、次第に山川家の人々の心を動かします。
そしてようやく、山川家から「本人次第」という回答を得るに至った。
これをうけた捨松の答えが、じつに素敵です。
「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」
なんとデートを提案したのです。
女性からのデートの提案。
封建時代の名残のまだ濃厚だった当時としては、まるで考えられない出来事です。
ところが、これを聞いた大山は、大喜びでこれに応じた。
ふたりはデートをします。
ところが、濃い薩摩弁の大山巌の日本語は、何を言っているのかさっぱりわからない(笑)
そこで、自然と二人は英語で、会話を始めます。
大山は欧州仕込みのジェントルマン、捨松はアメリカ仕込みのレディです。
話が弾む、はずむ。
当時、大山は43歳、捨松24歳。
親子ほども年の差があった二人だけれど、デートを重ねるうちに捨松は、大山の心の広さや、茶目っ気のある人柄に惹かれていきます。
この頃アリスに書いた手紙に、捨松は次のように書いている。
「私はいま、未来に希望がもてるようになりました。
自分が誰かの幸せと安心のために必要とされていると感じられることは、ともすれば憂鬱になる気持ちをいやしてくれる、勇気を与えてくれます。
ある人の幸福が、すべて私の手にゆだねられている。
そしてその子供たちの幸福までが、私の手の中にあると感じられる、そんな男性にわたしは出会ったのです。
したとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」
交際を初めて3ヵ月の明治16年 (1883) 11月8日、参議陸軍卿大山巌と山川重固息女捨松との婚儀が厳かに行われます。
そして1ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館で、大山夫妻は盛大な結婚披露宴を催した。
披露宴には、千人を超える招待者がいたといいます。
結婚後の大山巌は、芸者遊びも好まず、家族と過ごす時間を大切にしたといいます。
そして1916年12月、大山巌、永眠。享年75歳。
夫を見送った2年後、捨松は、夫のあとを追うように人生の幕をおろろします。享年58歳。
夫妻の遺骨は、二人が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されています。
今日の捨松のお話の中に出てきた鹿鳴館。
学校では、外国にお追従するためのふしだらな存在、あるいは明治政府の汚点のように教えられていると聞きました。
しかし鹿鳴館で行われたことは、夫婦で、あるいは家族単位でパーティを開いて交誼を深めるという、当時の列強同士の一般的外交術を日本でも行える環境を作ったものにはほかなりません。
そして鹿鳴館ではじめて行われた捨松のバザーは、日本初の女性看護婦養成所の設立資金となった。
つまりね、鹿鳴館の女性たちの力がなかったら、日本の病院は、女性入院患者の看護を男性がするという江戸時代の小石川養生所のやり方が、もしかしたらいまだに続いていいたかもしれない(笑)
まぁ、赤十字の活躍もあるし、まさかとは思うけれど、大切なことは、こうした明治の女性たちの活躍などが、いまの学校でまるで“教えられていない”ということ。
サヨク系の婦人団体など、韓半島での商売女や、ありもしない南京大量殺戮でっちあげ、あるいは戦前の女性は不幸だったなどとしきりに吹聴するくせに、捨松に代表される明治、大正、昭和という戦前の日本女性が果たした大きな役割や貢献については、まるで語ろうとしない。
そういうのっておかしくないですかね。
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