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小那覇舞天さん
小那覇舞天01

オキナワという地名は、いまでは“沖縄”と書くのだけれど、もともとの読みは“おっきなわ”=「大きな和」なのだそうです。
日本本土は、ヤマトンチュー=大和の中心 で、ようするに大昔はオキナワも、日本本土もおなじ大和の国だったらしいです。
大和=ヤマトというのは、古代タミル語で、ya=太陽・日、moto=下・本・元 からきていて、yamoto=太陽の下=日の本=日本と書くようになったのだとか。
古代においても、いまでも、沖縄と日本本土は、一国です。
地名がそれを示しています。
どうも最近、一国二制度などとわけのわからないことをいって、沖縄を中国領にしようなどというアホな主張をしている連中がいるらしいけれど、それって、単に沖縄の突端にある尖閣領域に眠る石油・天然ガス資源をシナが独占して欲しがっているというだけのハナシ。
そういうシナの邪心にホイホイと乗っかって、沖縄が中国共産党の支配下になったら、いちばん苦しむのは沖縄の人々ということは、誰が見てもあきらかなのに、平気でそういう方向に世論を持っていこうとする連中というのは、私に言わせれば悪魔の使いそのものです。
階級闘争主義者とか売国者、侮日者、サヨクというものは、日本や日本人を不幸にすることに生きがいを燃やしている、とんでもなくアホな連中です。
こんな連中に踊らされたら、世の中たいへんなことになります。
ところで、ロビン・ウイリアムス主演の映画で「 パッチ・アダムズ トゥルー・ストーリー」という映画があります。1998年の映画なので、ちょっと古いかも(笑)。
ご覧になった方もいるのでは、と思います。
パッチ・アダムス
パッチアダムス

ジョークを連発するユニークな療法で、人々の心と体を癒す実在の精神科医パッチ・アダムスという人物を描いたヒューマン・ドラマです。
実は、沖縄にそのパッチ・アダムズがいた・・・というお話です。
沖縄に、石川市というところがあるのだけれど、そこは戦前は、美里村石川といって、人口2千人足らずの静かな農村だったところです。
1945年、ここに米軍によって難民キャンプが設置されました。
石川には沖縄各地から人が集められました。
数か月で人口が3万人に膨れ上がったそうです。
それがきっかけで石川は市になったのですが、当時の沖縄は、まだ焼け野原です。
収容所には、戦災の傷跡も深く、身内を亡くされた方、家や土地、田畑を焼かれ失った方、大けがをされ、手足を失った方・・・・そして生き残った女性、子ども、老人などが集まっています。
悲嘆にくれ、体の傷も心の傷も癒えないまま、彼らは米軍による復興作業に駆り出されました。
そして作業によってようやくその日の食料と物資を得ていました。
みんな疲れきり、希望なんてない。
そこには、生きる気力さえ失った茫然自失の人々がいました。
舞天(ぶーてん)さん
舞天さん

そのキャンプに、突然、変なおじさんが、あらわれたのです。
そのおじさんは、毎晩のように、まだ起きている家を見つけては、かんだかい声で、
「ヌチヌスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」
といって入ってくる。
そして三味線を鳴らすと、琉球民謡の節に乗せ、琉球舞踊をくずしたヘンテコな踊りを踊り出しました。
みんなあ然としました。
けれど、「ヌチヌスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」と、ニコニコ笑っているそのおじさんのユーモラスな姿を見て、つい噴き出して、みんなも一緒に踊り出す。
そのおじさんが、あるご家庭を訪問したときのことです。
家のなかにはお位牌があり、生き残った家族は、涙を流しながら、こう言った。
「どうしてこんな悲しいときに歌うことができるの?
 多くの人が戦争で家族を失ったのに!
 戦争が終わってからまだ何日も経っていないのに、
 位牌の前でどうしてお祝いをしようというの?」
するとおじさんは答えました。
「あなたはまだ不幸な顔をして、
 死んだ人たちの年を数えて泣き明かしているのか。
 生き残った者が生き残った命のお祝いをして元気を取り戻さないと、
 亡くなった人たちも浮かばれないよ。
 沖縄も復興できないよ。
 さあ、遊ぼう!
 さあ、歌おう!」
彼の言葉にその家の人たちの表情も変わって一緒に歌い踊りだしたそうです。
このおじさんは名前を、小那覇全孝(おなはぜんこう)といいます。
沖縄の人々には、舞天(ぶーてん)さんの名前で親しまれていました。
この方は、もともと、ものすごくまじめな歯科医です。
彼は、仕事で白衣を着ているときや家にいるときは、それこそお固くて、口数も少ない歯医者さんそのものだったそうです。
しかし、・・・
沖縄戦のあと、彼は風変わりな男に変わりました。
集まりがあれば必ず顔を出し、場を盛り上げる。
泣いて傷ついている家庭を訪問しては、その場を盛り上げ、笑いの渦を起こす。
舞天さんの存在は水面にさざ波が立つように知られていったといいます。
舞天さんの漫談は、世の中を風刺したもので、みんな、おなかを抱えて笑いました。
そして、みんな、おなかのなかから大きな声で笑って、なんだか元気を取り戻しました。
打ちひしがれた沖縄の人々の心に、活力がよみがえりました。
舞天さんとともに民家をたずね歩いた弟子の照屋林助は、後にこう語っています。
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小那覇舞天は私にとっては先生です。
先生は、夜になると『林助、遊びに行こう』と私を誘いに来ます。
水筒に入った自家製の酒をチビリチビリ飲みながら家々を回ります。
まだ起きている家を見つけると『スージサビラ(お祝いをしましょう)』といって入っていくのです。
当時は、一軒の家に一〇〇人くらいが詰め込まれて生活している状態でした。
すぐに人の輪ができて笑いのうずが巻き起こりました。
先生のつくり出す笑いは、希望を失った人々にとってどんなに救いになったか、計り知れないと思います。
先生、すなわち小那覇舞天という人は、自分が有名になるとか、偉くなるとかいうことにはまったく興味を持たない人でした。
ただ、どうしたら人を楽しませることができるのか?
ということばかり考えていました。
人を喜ばせる、人に喜んでもらうことが自分にとっての一番の喜びだったのです。
それは、笑いというものが、どんなときでも人の心をなごませ、勇気づけるものだからではないでしょうか。
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戦前の日本というのは、暗い軍国主義といったイメージがあるようだけれど、決してそんなことはないと思います。
いまは亡き、有名な落語家、漫談家なども数多く輩出したし、なにより戦前の日本人も、いまの日本人も、同じ、日本人です。
そして舞天さんのような方は、阪神淡路大震災のときにも表れたし、戦争直後の焼け野原になった日本のいたるところに、あらわれました。
泣いてばかりいないで、笑っていこうよ!
力強く生きていこうよ!
さぁ、一緒に笑おうよっ!
辛いこと、苦しいことがあっても、
さぁ、スージサビラ(お祝いをしましょうよ)!
それが、日本人なんですね♪
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