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桜01

大西瀧治郎中将といえば、特攻隊の産みの親として有名ですが、実は、真珠湾攻撃の原案作成者でもあります。
大西中将は、航空艦隊参謀長だった昭和16(1941)年1月に、山本五十六連合艦隊司令長官から「ハワイを航空攻撃できないか」という腹案を示され、源田実中佐らと協力して真珠湾攻撃計画を作成しています。
真珠湾攻撃作戦は実行され、成功をおさめました。
大西中将は、たいへん優秀な作戦参謀でもあったわけです。
大西瀧治郎中将については、いろいろなところでいろいろな角度で書かれています。
私は、歴史を評価することを好みません。
あくまで「学ぶもの」と思っているからです。
そこで、ここではただ一点、中将が最初の特攻隊員を送りだしたときのお話をしようと思います。
昭和19(1944)年10月20日、早朝のことです。
大西瀧治郎中将は、初代海軍特別攻撃隊(特攻隊)に任命された関大尉以下、敷島隊の隊員達を集めて訓示しました。
大西瀧治郎中将の訓示
大西瀧治郎中将03

その訓示です。
〜〜〜〜〜〜〜〜
日本はまさに危機である。
この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、のような地位の低い司令官でもない。
したがって、私は一億国民にかわって、みなにこの犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。
みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。
が、もしあるとすれば、それは君たちの体当たりが成功したかどうかであろう。
みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。
我々もその結果をみなに知らせることはできない。
私はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。
この点については、みな安心してくれ。
〜〜〜〜〜〜〜〜
ここまで話して、中将は涙ぐまれたそうです。
そして、隊員たちひとりひとりの顔を、その目にしっかりと焼き付けるように見回し、
ひとこと、
「しっかり頼む!」
と訓示されました。
さらに訓示のあと、大西中将は、隊員一人ひとりと握手されました。
映画やドラマなどの中では、中将がこの訓示の中で、
「私も君たちのあとを追う」と述べたとしています。
しかし、当日この場に居合わせた人の話では、中将は隊員に対し、「君たちを送るのに際し、私は行くことはできない。なぜなら私は将官だからだ」と述べたという話もあります。
実際に、中将がどのように語られたかは、私達はその場にいあわせたわけではないのでわかりません。
けれど、ひとつはっきりと言えることは、「行けない」と述べられた、もしくは何も言わなくても、「行けない」と、みんながちゃんとわかって、話を聞いていた、というほうが、私にはしっくりきます。
そんなことを言うと、いまどきの若い人からは、
「ざけんなよっ! ひとに死ねと言っておいてテメエだけは助かろうって魂胆かよっ!」などと言われてしまうかもしれません。
昨今の新聞記者やテレビなら、「中将の問題発言!」などと言って大騒ぎするかもしれない。
しかし、そうではないのです。
当時の隊員たちは、誰も中将に特攻してもらいたいなどと毛ほども思わなかったし、それ以上に、大西中将の心にある大きな愛と誠を感じていたのです。
なぜなら、隊員たちは、全員が、特攻命令を出す中将が、自分自身で飛行機に乗って体当たり突撃をして死んだら、その方がよほど楽だと知っていたからです。
なぜか?
簡単なことです。一瞬で死ねるからです。
けれど中将は、作戦指揮者です。
指揮者は、戦いの帰趨を見極めなければなりません。
見極めるためには、みんなと一緒に死んであげることができないのです。
ひとたび飛行機が飛び立てば、作戦の成功はひとえに隊員たちの技量に、すべて委ねられます。
目的を告げ、作戦の成功を祈り、すべてを隊員たちに委ねる。
そして自らは、最後の最後まで戦線の帰趨を見守り、責任を持って闘い抜き、その責任を全うする。
それが、将官に与えられた使命です。
大西中将は、このときすでにみずからの死を覚悟していたといいます。
その覚悟を全員が「知って」いたからこそ、中将が「行けない」ということの裏側にある、中将の覚悟をみんなが感じ取ったし、中将の言葉の重さを、誰もが理解したのです。
私は、ひとの死を前にして、こういう心の言葉のやりとりができるというのは、当時の軍人たちが、いかに優秀だったかのなによりの証拠と思います。
当時のパイロットは、勉学優秀で、国内最難関の海軍兵学校を卒業した若者であり、しかも運動神経抜群で、視力もよい若者です。
要するに、勉強ができて、頭もよくて、運動ができて、礼儀正しくて、字もきれいな、超優秀な若者です。
ガリ勉で視力が落ちたら、それだけで飛行機乗りにはなれませんでした。
彼らは、日本人の若者としてとびっきり優秀な若者であり、「宝」だったのです。
その「宝」に、「死ね」と命令する。
しかも、「私は行けない」と言わなければならない。
その辛さ。
涙なくしては語れないことだと思います。
そしてこういうことを、相互に理解できた旧日本軍というのは、上官と部下との間に、強烈かつ強固な相互信頼関係が熟成された、真のチーム、チームというより、むしろ家族そのものだったのであろうと思うのです。
さらにいえば、中将は隊に常駐しているわけではありません。
おそらく隊長の関大尉ですら、大西中将にお目にかかるのは、はじめてのことです。
けれど、そのはじめて会う相手にさえ、絶対的といえるだけの強固な相互信頼が成立していたのです。
そのような軍隊は、世界中、どこを探したって、そうそうはない。
誰だって命は惜しいです。
その命を捨ててまで奉公する。
軍人としてだけではない、互いに一個の人間として、深く結ばれた<絆>と<信頼>があったからこそ、中将の訓示は、隊員たちの胸に沁みたし、中将もそれを語ることができたののだと思うのです。
そして、戦前の日本には、こういう「精神性の高さ」というものが、厳然として、あったということを、私達は忘れてはなりません。
戦後の日本の教育は、友や隣人を愛しなさいと教えます。
けれど国は悪いことをするところだから、国は愛してはいけないと教えます。
しかし国家とは、その国に住む人々みんなの共同体です。
ということは、みんなの友や家族、隣人の相和が、国家なのであり、国家を愛することがいけないことなら、その国家に住むすべての人を愛してはいけないことになります。
これは矛盾です。
国家が共同体であることを忘れ、共同体の中の互いの信頼を忘れて個人主義に走れば、人々は和をなくし、社会の紐帯はバラバラになってしまいます。
大西瀧治郎中将
大西瀧治郎中将02

昭和20年5月、大西中将は、軍令部次長として内地に帰還されました。
しかし彼は、同じ都内にある我が家へは帰りませんでした。
官舎に独居したのです。
それを聞いた者が、
「週に一度は帰宅して奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧めたそうです。
すると中将は、
「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだよ。
俺と握手していったのが614人もいるんだよ」と、目に涙をためて答えられたそうです。
若く将来性のある優秀な若者を死の突撃に送りだしたことへの責任を、その重さを、大西中将は誰よりも深く抱かれていたのです。
中将は、終戦の玉音放送の翌日、自らの軍刀で、切腹されました。
ふつう、切腹は、重量の軽い短刀を用います。
そして介錯がつきます。
しかし中将は、ひとりで、重たい軍刀を手に取り、腹を十字に切り裂き、自決されました。
古式の作法にのっとり、腹を切ったあと、自らの手で頸動脈を切ろうされました。
けれど、軍刀は長刀です。ずしりと重いです。
切腹で体力を使い果たした中将には、もう重たい軍刀で自分の首を斬るだけの体力が残っていませんでした。
翌朝、大西中将は官舎の者に、部屋で血まみれで倒れているところを発見されました。
まだ息がありました。
中将は、医師の手当てを拒まれたそうです。
そして発見後約6時間、痛みに耐え続け、息絶えられました。
上司・上官の覚悟の言葉を聞いて、「ざけんじゃね~よっ!」という言葉しか返ってこないような社会と、覚悟の言葉を聞いて、しっかりとその覚悟を受け止めれる高い精神性を持つ社会と、いったいどちらが、発展するのでしょうか。
そしてどちらが、世界に認められる国家となりえるのでしょうか。
現代日本に生きる私達は、自分は「人間」であると思っています。
なんの疑問も抱かずに、それが世界の常識であると思っています。
けれど、ほんの数十年前まで、それは世界の非常識でした。
人間というのは、白人種を指し、有色人種は人間でなく「獣」の一種と看做されていたのです。
そしてそれが世界の常識でした。
ですから欧米による植民地統治というのは、白人という人間が、有色人種という野蛮な猿人を統御する国際社会の常識的仕組みだったのです。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、それが事実です。
そしてそういう世界にあって、日本人は、どの白人国家より、どの白人種より、知的で、勇敢で、高潔で、誰からも好かれる民族たらんとしました。
だからこそ日本は世界から認められる人間の国家となり得たのです。
大西中将は、そうした日本を代表する、勇気と高邁な精神を持った、立派な帝国軍人としての生き様を、まさに体現された方であると、私は思います。
高い教育と、高邁な精神、他人のために自らの命すら犠牲を厭わない日本人の心。
そうした無形のものが、日本人にとって、なによりも尊い財産として、厳に存在した。
その「日本の心」を、私たち日本人は、やはり、大切に育んでいかなければならない。
私は、そのように思うのです。
日本の心を大切に伝えよう!
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「特攻は命令だったんだ」朝日新聞(H18.12.6)

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