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曽我物語

赤穂浪士といえば、いまでもたいていの人が知っているのだけれど、実は、戦前までは、日本三大仇討ち物語のひとつとして有名だった。
日本三大仇討ち物語というのは、
(1) 赤穂浪士物語
(2) 曽我兄弟物語
(3) 伊賀越え物語
だけど、いまどきは、曽我兄弟と、伊賀越えは、ほとんど聞かれなくなってしまいましたね。
とくに曽我兄弟の物語は、江戸時代から人形浄瑠璃や歌舞伎、神楽、義太夫、村芝居の定番でした。
静岡県富士宮市に“音止めの滝(おとどめのたき)”という滝があります(上の写真)
すぐ近くには、白糸の滝などもあり、どちらも日本の滝百選の一つに指定されています。
落差約25メートルの名瀑です。
豪快で雄雄しい滝で、近くの白糸の滝とは対照的な、男滝です。
音止めの滝
音止めの滝

実は、この“音止めの滝”にまつわるお話が、上にご紹介した曽我兄弟の物語です。
時は、平安末期の頃です。
東国では、地方豪族たちの領地争いが絶えなかった。
伊豆では、工藤氏と伊東氏が、長年、領地争いをしていた。
ある日のことです。
工藤氏が、伊東氏の暗殺を企て、家来に命じて、狩りをしていた伊東氏の頭領、伊東祐親にめがけて弓を射かけました。
<( ・_・)。D -→ -→ -→ -→ (>_<→ グサリ 放たれた矢は、頭領の祐親をかすめると、脇に立っていた男に誤って命中した。 射殺されたのは祐親の息子の河津三郎(かわづさぶろう)です。 悲報は妻と二人の息子に伝わった。 亡骸と対面した妻は泣き崩れ、二人の息子に、こう言った。 「よくお聞き。お父さんは工藤祐経に殺されたのです。 お前たちはまだ幼くてわからないでしょうが、お前たちが大きくなったら、お母さんは、お前たちにお父さんの仇を取ってもらいたいのです」 三歳の弟にはまだ理解できないことでしたが、五歳の兄は、目の前に横たわる父の顔をじっと見つめ、こう言いました、 「必ず、お父さんの仇を取ります。」 その後、母は曽我氏と再婚。兄弟も曽我姓となった。 兄は曽我十郎祐成(すけなり)。 弟は曽我五郎時致(ときむね)。 と名乗った。 義父に大事に育てられた二人は、母の言葉を忘れずに育った。 (こうして二人の姓は“河津”から、”曽我”に変わります。この改姓がなければ、もしかしたら、曽我物語は河津物語だったかもしれない。 しかし、昔は、よく人は死んだのです。それは戦乱というだけでなく、事故や怪我、病気によって、あっという間に、人は死んでしまった。 だから、家長である夫が斃れると、妻は普通に再婚したし、それがあたりまえでもあった。 そうした時代背景のなかで、兄弟の改姓は、多くの人に、わが人生との共感を呼んだであろうと思う。 また、再婚後も、前夫の恨みを保ち続ける、体も心も次の夫のものとなっても、前夫への鎮魂を忘れない。それが貞淑な妻の証とも考えられていた。日本はそういう社会だった) ある日のこと、 野で遊ぶ二人の上に、五羽の雁が飛んでいた。 空飛ぶ雁を見て、兄が弟に言った。 「雁が一列になって飛んでいる。2羽は親で、3羽は子供だ。私たちにも親がいる。 でも今の父は、本当の父ではない。本当の父は、祐経に殺された。血のつながった父はもういない」 「祐経に会ったら、弓で射て、首を刎ねてやる」と弟。 「大声を出してはならぬ。このことは誰にも話すでない。仇討は、二人だけの秘密だ」 兄弟は、祐経を仇と付けねらい、苦しい生活に耐えたけれど、仇討の機会はなかなか巡って来ない。 1192年、源頼朝は、鎌倉幕府を開いた。 翌年、頼朝は、富士の裾野で大掛かりな狩の大会を開催した。 これこそ亡き父の仇を取る絶好の機会。 しかし、狩りの間、祐経はいつも大勢に囲まれていて、近づくことすらできない。 二人は頼朝の家臣団にもぐりこみ、その晩、祐経の宿所を突き止めた。 決行の晩・・・・・ 兄弟は岩陰に身を隠し、祐経の宿所に如何に近づくか相談した。 しかし、ひそひそと話す兄弟の耳に、近くにある滝が、ゴーゴーと鳴り響いて、互いの声が聞き取れない。 兄弟がふと「心なしの滝だなぁ」と、ためいきをつくと、あら不思議。 激しい滝の音はぴたりと止んだ。 そして兄弟の相談がすむと、再びゴーゴーという滝の音があたりに響いた。 俺たちには、神仏のご加護がある! (↑この音止めの滝の話も、超有名です。そしてこのくだりが象徴していることのひとつに、神仏は必ず瑞兆を見せてくださるものだ、ということがあります。 地震・水害等も同じ。世の中を乱そうとする者がその地域の政権を取ったりすると、必ず神仏・・・その中には英霊も含まれるのだけれど・・・が、何らかの兆候を示してくれる。 死者と生者が、いったいとなってこの世を動かしているというのが、日本人の思考でもあります) 物語に戻ります。 兄弟は、狩り大会の宿所をあちこち調べます。 月が雲間よりしばし顔を出した。 祐経の宿所がわかった。 月が雲間に隠れた。 たちまちの豪雨・・・ 雨音は、二人の侵入の足音を消します。 「起きろ、祐経!河津三郎の息子、十郎なり」 「弟、五郎なり。亡き父の積年の怨みを晴らしに参上!」 祐経の手が刀に届こうとした。 寸前、 兄は、祐経の左肩から右わきの下にかけて袈裟に斬る。 弟の剣は、祐経の腰を貫き、とどめを刺す。 兄弟は勝利の雄叫び(おたけび)をあげます。 「遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ! (↑有名なセリフですね) 我こそは、河津三郎が子、十郎祐成、同じく五郎時致なり。 たった今、父河津三郎の仇、祐経討ち取ったり。 我ら、宿願を果たし候~~!!」 兄弟は、すぐに祐経の家来に取り囲まれた。 祐経の家臣には、加勢の者も加わった。 兄弟は、勇猛果敢に戦うのだけれど、兄は斬り合いの最中に殺され、弟は囚われの身となった。 翌日、弟は、将軍頼朝の前に引き出される。 祐経は将軍頼朝の寵臣です。 見事、父の仇を討ったとはいえ、死罪は免れなぬ。 覚悟の定まった弟・五郎は、恐れ気もなく堂々と頼朝に、父が射殺されたことを述べます。 そして、自分たち兄弟の18年の艱難辛苦の日々も語った。 将軍、頼朝も、若き日々、政治犯の息子として流刑にあい、辛い日々を過ごした過去を持ちます。 そして、頼朝のみならず同席の誰もが、親を思う子の気持ちに痛く感動した。 頼朝は寛大に処理しようとしましたけれど、祐経の遺児・犬吠丸の、父殺害の「五郎に死罪を」という嘆願により、それはなりませんでした。 (こういうところが、じつに日本的と思うんですね。 たとえ最高権力者の将軍といえども、騒動は事実。遺族の歎願の前に、自分を殺して罪は罪として裁かなければならない。将軍の鶴の一声で、罪人が無罪になることもない。 もし、これがシナや朝鮮なら、皇帝やヤンバンの贔屓次第で、どうにでもなる。 でも、日本は、贔屓だけではどうにもならない。 なぜなら、上下ともにみんなが正義を追求する。そしてそれがあたりまえの社会。それが日本です。) 五郎が言いました、 「本望なり。 死は覚悟の上のこと。 あの世とやらで亡き父や兄と、とく(早く)対面したし。」 兄・十郎22歳、弟・五郎20歳でした。 「曽我物語」は、鎌倉時代に書かれた物語です。 人々はこの話を愛した。 それは、親への“孝”の精神を学ぶということに加えて、この兄弟と母の人生に、人々が自分の人生と重ね合わせて自然と共感を生むところがあったからなのではないかと思うのです。 時代は変わり、昨今では、曽我物語を知る人も少なくなったやに聞いています。 しかし、たとえ、いっときの敗北があったとしても、世代を超え、命を賭して、必ずや思いを実現する。 そしてそのことが、時代を超えて人々に語り継がれる。 私たち日本人は、終戦で物財も心も失いました。 そして戦後の64年は、ひたすらモノを豊かにする時代だった。 そしてこれからの半世紀をかけ、私たちは、終戦の詔勅で陛下が語られた、 持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじて、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精髄と美質を発揮し、
世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。
汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体せよ。

道義心の復活
志操心の復活
国体の精髄と美質の復活
これを実現していかなければならないのではないでしょうか。
曽我物語に、ちょっぴり感動を味わった方
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滋賀県長浜の曳山祭り2009Ⅱ「曽我兄弟」
これ、かわいいです(^-^)b

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