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マオビトウの浜辺
マオビトウの浜辺

以下は、花うさぎさんのブログで紹介された、花うさぎさんあてに、広沢周子さんがお便りにしたためられた文の紹介記事です。
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1161988/
恥ずかしながら、ボクもこのことは知りませんでした。
とっても大切なお話と感じました。
是非、ご一読をお勧めします。
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猫鼻頭(マオビトウ)の潮音寺
フィリピンと台湾の間にはバシー海峡があります。
その海峡で25万人以上の日本人将兵、軍艦、輸送船二百隻がいまだに、海底に放置されています。
この事実をご存知でしょうか?
25万将兵の御霊を祀ったお寺が台湾最南端の恒春半島の猫鼻頭(マオビトウ)という場所にあります。
高雄からは200キロの場所です。
お寺の名前は潮音寺といいます。
静岡市にお住まいの中嶋秀次氏が、昭和五十六年、何億のお金と全私財を投じて建立なさいました。
中嶋氏ご自身も1万トン・5000人収容の輸送船「玉津丸」という船に乗船していたのです。
バシー海峡に玉津丸がさしかかったとき、アメリカ軍の攻撃を受けてしまいあっという間に「玉津丸」は沈没しました。
将兵たちは海に投げ出されたあとは、救助用筏につかまってバシーの海上をさまよったのです。最初は小さな筏に2~30人がつかまっていたといいます。
バシーの海をさまよい続ける間、飢渇と海中にひそむ鱶(フカ)への恐怖におののきました。
衰弱した将兵は日が経つにつれて、次々と死んでいきました。
精神を病んで自ら海に没していく兵隊もいました。
中嶋氏が救助されたのは遭難から12日後でした。
ちなみに玉津丸で生き残ったのは五千将兵のうち中嶋氏を含む5人のみでした。
他の輸送船も同じような状況であったでしょうね。
潮音寺以外に、バシー海峡で亡くなった兵士を、慰霊、顕彰するものは何もありません。
バシー海峡は戦前は日本の領海でした。
この海を幾多の軍艦、輸送船が南方の戦場にいくために通過していったのです。
昭和19年には海、空ともにアメリカに制圧されてしまい、通過する日本の輸送船はアメリカの機銃掃射、潜水艦からの攻撃で大打撃を受けました。
病院船までもが攻撃の対象だったとか。
結果として25万以上の将兵がバシー海峡の海で亡くなりました。
ご遺体は恒春半島のあちこちの浜辺に打ち寄せられました。
潮音寺の外観
潮音寺の外観
内部の様子
潮音寺の内部

この海域での大惨事を知る人たちはバシー海峡を輸送船の墓場と言っているそうです。
マオビトウの浜辺は遠浅です。
この浜辺にも約15000体ものご遺体、軍馬が打ち寄せられたこともあったそうです。
ご遺体収容は主として陸軍が行い、地元の台湾人の青年団が収容に協力をしました。
後年、中嶋氏は収容に当たった人から「遺体の軍服を持ち上げると、体全体に蛆のような小虫がびっしり取り付き肉体を食い散らし、骨片がボロボロと地面に落ちた」と聞いたそうです。
半島の浜辺からは、あまたのご遺体が台湾各地の共同墓地に毎日トラックで運ばれていったのです。
こういう事実があったにもかかわらずバシー海峡の悲惨極まる話は今にいたるも、伝わってきません。
シベリア、満州、南方、沖縄、での激戦状態、悲惨については多くの日本人の知るところです。
国として遺骨収集をした話、慰霊塔建立の話も伝わってきています。
しかし、バシーでの大惨事に関して、なぜ、伝わらないのでしょうか?
去年の秋、マオビトウの浜辺で海を見ていると、タンカーらしき船が西から東に通過していきました。
きっと日本に向けて油を満載しているタンカーなのだろうと思うと、なんともやりきれない思いがしました。
海上には今の日本人の生活に不可欠の原油を運ぶタンカー
その海底には日本のために戦って死んでいった幾数十万のご遺体が・・。
それらのご遺体は現在の多くの日本人に知られていません。
あまりにも不条理ではありませんか。
あまりにもむごすぎませんか。
彼らの殉死の意味はいったい、なんだったのでしょうか。
祖国である日本が、日本人の私たちがこの方々の上に思いを込めた行動をしないとは。なんとも情けない話です。
今の日本の状況は沈没寸前の船にも思えます。
観音立像の背面に刻まれた碑文
潮音寺の碑文

多くの人たちが日本の今後について、あれこれと理屈を言っています。
しかし、もっとも基本的なこと、すなわち国に殉じた人々を顕彰もしないで、なにが日本再生だと私は心底、思っています。
バシー海峡の25万人の将兵も他の地域で、戦死なされた方々と同じように日本国から顕彰されてしかるべき方々です。
この方々は国に殉じたのです。
今の日本の礎となってくださった方がたなのです。
中嶋氏は生還してから戦後、ずっとご自身が生き残った理由と意味を探し続けてきたと言います。
だからこそ、全財産を失っても潮音寺建立へと情熱を傾けたのです。
バシー海峡の悲惨さを多くの日本人に知ってもらうにはどうしたらいいのでしょうか?
私のような力のない者には伝える術を持ちません。
今年、雑誌正論2月号にこの件に関し、投稿したものを掲載していただきましたが、たいした反応はありませんでした。
あちこちでこの話をしても同様です。「あら、そう」で終わりです。
信仰団体に行って話しても、関心を寄せてはもらえませんでした。
今の日本人には戦争中のことなど関心がない、どうでもいい、ことなのでしょうか。
自分の生活に直接関係ない、と思っているのでしょうか。
むなしさが沈殿していくのみです。
参拝に行っていろいろなことがわかりました。
潮音寺を管理してくださっているのは、高雄の台湾人女性です。
潮音寺の管理も、たまにやってくる日本からの参拝の案内もこの女性が個人のお志でなさっておられるのです。
毎年、旧暦の7月15日に、女性は25万将兵のために盛大にご供養をなされています。
日本国のために命を捧げた人々にたいして現地の人におんぶに、抱っこの任せきりでいいのでしょうか?
私は身の置き所のないような恥ずかしさを覚えました。
日本からの参拝客は年間二百人ぐらいだそうです。
あまりに少ない参拝客ではあります。
中嶋氏は“バシー海峡”と言う歌集を出版されたことがあります。
戦場に赴くときの気持ち、バシーの海で遭難に遭ったときの歌を最後にご紹介いたします。
些かの虚しさはあれ
今にして
物は思わじ 防人われは
再びは見じ父母の国よ
幸くあれわれ
南冥に 朽ち果つるとも

国を護る防人として戦地に赴く決意の歌です。
中嶋氏だけでなく数多の防人も同じ護国の決意で戦場に赴いたのでしょう。
60数年前の青年たちのこの悲壮なる決意に対して、私たちは“落ち行くのみの国家を作り上げた”、という答えを出した、と言ったら、言い過ぎでしょうか。
昭和19年8月19日未明、中嶋氏が乗船した大型輸送船玉津丸は五分間で、海底に没しました。
そのことを氏は次のように詠いました。
傾ける暗きデッキに 竦み足り
死の世界をば 視るここちして
聳えたつ 左舷をよじる黒き影
われも続かむ 奈落の海へ
のめるがに傾きてゆく一万トンの
闇の真中に 怯えこみあぐ
五千余の戦友らを呑みてさりげなく
海はゆるやかに 呼吸しており

たった65年前、バシー海峡で、前途有為な青年たちが国に殉じたことを、どうぞ心にお留め下さい。
平成21年7月 広沢周子
ハシ―海峡

バシー海峡フリー百科事典(Wikipedia)より
バシー海峡(BashiChannel)とは、台湾南端からフィリピンのルソン島間の水域のうち、台湾とフィリピン領パタン諸島(バシー諸島)との間にある海峡。
バタン諸島以南をバリンタン海峡(ルソン海峡)と呼ぶ。
幅は約150km。太平洋と南シナ海を結び潮流が早く、水深も深い。
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日本は、戦前の日本というものを、いまいちどしっかりと見なおすべきときにきていると、ねずきちは、強く思います。
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凛として愛(1/7)

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