
1930年に起った「霧社事件(むしゃじけん)」というできごとがあります。
台湾でのできごとです。
日本が台湾を統治しはじめたのが、1895年ですから、統治開始から35年目のできごとということになります。
「霧社事件」は、台湾での最大にして最後の抗日事件でもあります。
事件のきっかけとなったのは、日本人の警察官が、台湾原住民の固有の文化を無視した生活指導を行ったこと、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課したこと、商取引の利益を中間搾取していた(悪い奴もいた)ことなどが指摘されています。
そうした日頃のストレスが重なっているところに、10月7日、日本人警察官が原住民の若者を殴打した。
タイヤル族の村落酋長の息子のタダオ・モーナが、村での結婚式の酒宴の場を偶々通りがかった日本人警察官・吉村巡査を、宴席に招こうと、手を取った。
ところが、吉村巡査は「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ拒絶セントシテ握ラレタル手ヲ払ヒタル拍子」にステッキでモーナを2度殴打した。
これを侮辱を受けたと感じた原住民たち(ねずきちだって怒ります)は、吉村巡査をボコボコにした。
しかし、日本の警察官は怖い。
で、事件について警察からの報復をおそれた村人が、先手を打って蜂起した、というのが「霧社事件」の発端です。
10月27日、タイヤル族のリーダーの一人モーナ・ルダオを中心とした6つの村の1200人ほどが、霧社公学校の運動会を襲撃します。
襲撃では日本人のみが狙われ、約140人が殺害される。
このとき、現地の警察にはタイヤル族出身の警察官が2名いたが、彼らは襲撃には参加せずそれぞれ自決したそうです。
軍や警察は蜂起に参加した村々へ鎮圧を開始します。
陳圧行動の結果、700人ほどの抗日タイヤル族が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。
この事件をもとに、台湾総督府では、1931年1月、台湾総督、総務長官、警務局長、台中州知事が引責辞任しています。
そして体制を入れ替えた上で、反乱を起こしたタイヤル族に対してだけでなく、日本側関係者に対して、より一層厳しい処罰を行った。
さらに日本は、台湾総督府内にあった原住民に対する差別的な政策や行動を修正し、日本人・台湾人ともに皇民として等しい地位にあるという姿勢を加速する。
霧社事件の生存者が移住した清流部落や、霧社では、国費を用いて大規模な水田の開墾事業を起こし、結果的に農業生産性が向上して、住民らの生活は以前よりも豊かにしたりもしています。
また、台湾人であっても、国家に忠誠を示した者は、日本人・台湾人の区別なく顕彰した。
このため、日台の和合はさらに加速し、大東亜戦争時には、台湾人で、高砂義勇隊に自ら志願する者が、多数いた。
一説によれば、霧社事件での山岳戦でタイヤル族がとても強かったため、軍部が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われています。
ちなみに、この「霧社事件」は、戦後、日本にかわって中国国民党が台湾を統治するようになると、日本の圧政に対する英雄的な抵抗運動としてみなされ、蜂起の指導者たちは「抗日英雄」と称されるようになった。
そして霧社にあった日本人の殉難記念碑は破壊され、蜂起の参加者らを讃える石碑が建てられた。
ところが、1990年代以降、台湾民主化の動きが高まると、台湾史への再認識がブームとなり原住民文化への再評価が行われるようになった。
すると今度は、「霧社事件」は原住民族のアイデンティティーを賭けた戦いとして位置づけられるようになった。
そして「霧社事件」は、日本による台湾の近代化が進む過程の中で、台湾人のアイデンティティと、日本型近代的統治との融合に、非常に大きな役割を果たした事件、と位置付けられるようになった。
つまり、日本による近代化政策をただ鵜呑みにする、いいなりなるのではなく、主張すべき文化や伝統は、ちゃんと主張し守り抜く。そのうえで、相互の信頼関係を構築し、力を合わせて近代化を促進するという、日台双方にとって前向きな結果をもたらした、象徴的事件として位置付けられるようになった。
これはとても冷静かつ大人としての判断であると、ねずきちも思います。
そして、この事件のときに、台湾の人々が日本人に見せつけたのが、台湾の高砂族の“強さ”です。
とにかく彼らは、強い。
しかも、勇敢だった。
耳が良く、夜目が効き、素足で音も無く夜の密林を駆け巡る。
人間業とは思えない敏捷さ、獣のような視聴覚と方向感覚、正義感の強さ、曲がった行為を嫌うまっすぐさ。
そこで日本軍は、大東亜戦争末期、台湾総督府を通じて、高砂義勇隊を募集します。
この志願には5000人もの人が志願し、選抜から外された人達の多くは怒り、悔しがり、涙を流し、血判書を提出したそうです。
そして高砂義勇隊は、日本の正規軍を超える戦闘力や忠誠心で、世界最強といわれたイギリス軍のグルカ兵と互角に対戦す。その勇猛さとジャングルにおける知識の豊富さで日本軍を支えた。
高砂義勇隊の軍紀の厳正さは正規軍を凌ぐとまでいわれ、純真無垢な心と自己犠牲の精神は日本兵たちの胸を強く打ち、日本兵とも瞬く間に信頼と友情、尊敬の念を芽生えさせたといいます。
このようなエピソードがあります。
ある高砂義勇隊員は、前線で飢餓に苦しむ日本人の戦友のため、自分自身も空腹であるにもかかわらず、山を越えて米を取りに行った。
そして前線に戻る途上で力尽き、死んだ。
背中に米50キロを背負ったまま。自らは一粒も手をつけることなく餓死していたそうです。
高砂義勇隊の隊員は、学校と軍隊で日本精神をたたき込まれていた。
彼らはいいます。
「日本精神は誠の精神。当時の日本軍人はまっすぐで正しかった」
高砂義勇隊の隊員であった簡福源さんは、終戦で日本兵が日本に帰るときの思い出をこう語ります。
、
「なぜ僕らも帰らないのとおじいさんに聞くと 内地の人とは違う と言われた」
「ああ僕は日本人じゃなかったのか」
簡さんはこの思い出を語るたび涙ぐんだそうです。
それほど日本人意識が強かった。
戦後、台湾を統治した蒋介石・国民党政権は徹底的な日本否定を行いました。
しかし簡さんは日本教育をバネに台湾最年少の県議会議員に当選し、日本の桜3千本を烏来に移植したり、九州の姉妹都市との交流などで日本を20回以上訪れたりして、日台の民間交流に努めた。
台湾が民主化時代に入った1992年、地元リーダーの周愛子さんと日本の戦友会の奉賛によって大東亜戦争中に日本軍の一員として南方戦線で戦った高砂義勇隊の慰霊とその誇るべき民族精神を後世に伝えようと、「高砂義勇隊記念碑」が原住民地区の台北県烏来に建立された。
この記念碑は、地元の管理会社が倒産して、撤去の危機に陥ったけれど、産経新聞の呼びかけによって集まった日本からの義捐金により、地元の県有地に移設された。
あらたな碑の除幕式が行われたのが、2006年。

ところが、この「親日」慰霊施設の完成を、反日意識を抱く在台中国人の政治勢力は見逃さなかった。
同年1月月17日、台湾の中国時報が突如一面トップで非難報道を行った。
記念碑にある日本語の碑文や、周辺に建つ日本人奉納の歌碑や日章旗を指摘して「日本軍国主義を賛美している」と騒ぎ立てた。
そして翌18日には中国人の周錫瑋県長(知事)が就任したばかりの台北県が「24日までに記念碑を撤去せよ」との命令を下した。
理由は「建碑の申請手続きに不備があった」等々だった。
しかし、申請を受理したのは県自身であり、しかも実行不可能な短期間での撤去命令です。
中国人勢力には最初から理性などなかった。
24日、撤去作業が強行された。
原住民団体が猛反撥したため、記念碑の撤去は免れたのだけれど、その代わり碑文を覆うため、ベニヤ板が張られた。
歌碑や、付属の碑、日の丸などは、ことごとく排除された。

だが識者らが碑文などを検証した結果、決して「軍国主義賛美」の施設でないことが判明。
また問題となった日章旗にしても、これは台湾総督が義勇隊に贈ったものの複製で、「隊旗」
であった。
原住民側は撤去処分と原状回復を求める訴訟を提起した。
2007年12月、台湾高等行政法院は訴えを却下したけれど、2009年年3月24日、最高行政法院での差し戻し審で処分撤回の判決が下った。
つまり、高砂義勇隊側が裁判に勝利した。
そして県も、原住民と和解し、記念碑をそのままに、公園を原住民(タイヤル族)の文化をテーマにした観光スポットとして整備することを約束した(2009年8月に竣工予定)。
日ごろ政府に従順な住民の心を軽視し、なめてかかった中国人政治勢力の敗北です。
しかし、現時点で、県はいまだに、撤去された付属の歌碑などを返還していない。
県は早くから「返還する」とは言っているけれど、傲慢にも「お前たちが受け取りに来い」という。
現地のマカイ・リムイ氏たちは、
「県が不法にも持ち去ったのだ。それに従っては、我々の立場がなくなる」として、あくまでも原状回復を求める・・・つまり、県側にもと通りにさせるため、「また訴える」といいます。
台湾では、国民党が政権をとったため、「さらに態度が大きくなった」(マカイ氏)と言う中国人勢力に対し、かつて南方戦線で雄雄しく戦った高砂兵士の子孫たちの、民族の誇りをかけた戦いは、いまなお続行中なのです。
以前にも書きましたが、戦争というものは、宣戦布告から終戦宣言までの一定期間だけのもではありません。
■関連記事:終戦の詔勅、開戦の詔勅
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-569.html
だいたい世界史の中で、義理がたく宣戦布告と終戦宣言を行ってきたのは、日本くらいなもので、たとえばアメリカのイラク戦争、ベトナム戦争参戦、朝鮮戦争参戦にしたところで、宣戦布告などされていない。
シナにいたっては、トルキスタンの占領や、満州の占領(満州は国家だったにもかかわらず)、宣戦布告もなにもなしでいつのまにか中国共産党が支配下においている。
上に書いた台湾のできごとは、いまだに、大和民族の「和をもって貴しとなす」ための戦争は、続いているということです。そして、台湾の高砂義勇隊のみなさんは、いまだに、戦いを続けています。
戦争というものは、国家間のアイデンティティの戦いでもあります。
そしてその結果は、両国の国民に、繁栄をもたらすこともあれば、衰退や滅亡をもたらすこともある。
シナによる征服は、滅亡と衰退と歪みを招き、日本による和合は、相互の発展と進歩と平和をもたらす。
戦後60年を経由して、高砂族のみなさんは、いまだに闘っているのです。
私たち大和の民の戦いは、いまだ終わっていないのかもしれません。
立ち上がれ!大和の魂!と思う方
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この動画は必見です。前半と後半、どちらもお見逃しなく。
高砂義勇伝 PART2
後半です。泣かされます。

