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聖徳太子

「和をもって貴しとなす」といえば、聖徳太子の十七条憲法の第一条です。
十七条憲法は、西暦604年4月に世に出されたものですが、あれから1400年を経由して、いまなお日本人の心に沁みついています。
第一条の原文は、
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一曰(一にいわく)
以和為貴(和をもって貴しとなし)
無忤為宗(さからうこと無きをむねとせよ)
人皆有黨(人皆、党あり)
亦少達者(また達(さと)れるもの少なし)
是以或不順君父(是を以てあるいは君父にしたがわず)
乍違于隣里(また隣里にたがう)
然上和下睦(しかれども上やわらぎ下むつびて)
諧於論事(事を論うにかなうときは)
則事理自通(すなわち事理おのずから通ず)
何事不成(何事か成らざらん)
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口語訳すると、
「和をなによりも大切なものとして、争いをおこさぬことを根本としなさい。
人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。
だから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。
しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するのです。」
いやあ、とってもいいですね♪
とくに、後段のとことで、
然上和下睦
上やわらぎ下むつびて
とあるのは、圧巻です。
どんな言論戦であれ、会議であれ、戦いであれ、その根本のところに、「協調・親睦の気持ち」が大切と説いている。
まさにこれが“日本精神の柱”なのではないかと思います。
ねずきちには、いわゆる共産主義や社会主義などの階級闘争主義、あるいは欧米型契約主義に、どうしてもなじめないところがある。
それが、この部分です。
根っこのところに「互いに協調・親睦の気持ちを持って」というところがない。
ただ非難し争うだけ。ただ言い張るだけ。そこに互譲の精神というものがない。
階級闘争主義者にあるのは、ただ“闘争”だけです。
契約主義者にあるのは、ただ“条項”だけです。
そこに“心”がない。だから馴染めない。
契約を守ることはもちろん大事だけれども、たかが一片の文書に書かれたことより、互いの和のほうが、よっぽど大事だと思う。
「和」は、「環」であり「輪」です。
環濠集落(堀をめぐらした集落)に端をはっしているともいいます。
その集落を表す言葉が、我が国の集団や仲間の意味を表す言葉となり、一人称が「ワシ=和氏」となった。
シナは、周辺国の多民族をことごとく蛮族とみなし、それぞれの国の一人称に、別称を与えた。ヤマト人の一人称は「ワシ」だから、「倭」が当てられた。
ところが、「倭」は、背が小さい、体が曲がっているなどの意味の漢字です。
冗談じゃない。俺たちは輪なんだ。環なんだ。和なんだ。
だから大きな和、でヤマトと号した。
ヤマトは、古代タミル後の“ya”(=日)と、“moto”(=本)がなまって、“yamato”となったのだとか。
そして言葉を意訳して漢字を当てたのが“日本”。
だから日本は、“和”の国なのです。
しかし、和を脅かす不埒なヤカラも世の中にはいます。
これに対して、十七条憲法では、その第6条に次のように規程しています。
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六曰
懲悪勧善 古之良典
是以无匿人善
見悪必匡 其諂詐者
則為覆国家之利器
為絶人民之鋒釼
亦侫媚者対上則好説下過
逢下則誹謗上失
其如此人皆无忠於君
无仁於民
是大乱之本也

六に曰わく
悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、
古(いにしえ)の良き典(のり)なり。
ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。
それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。
また佞(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、上(かみ)に対しては則ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。
それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。
これ大乱の本(もと)なり。
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六にいう。
悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。
そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。
へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある利器であり、人民をほろぼすするどい剣である。
またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。
これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。
これは国家の大きな乱れのもととなる。
見悪必匡」悪を見たら必ず匡(ただ)せ!というのです。
友愛などとうまいことを言って、その実、国を滅ぼさんとする者は、忠義の心がなく、人々に対する仁徳もない。
そして上の人には下の者の過失をいいつけ、下の人には、上の者の過失を誹謗し、中傷する。
階級闘争主義者は、タレコミ、告げ口を好み、下の者の前で、平気で上長を批判する。
そういう者は、大乱の本となると説いている。
では、大乱の原因となるような者を見つけたらどうするか。
「懲悪勧善」・・・悪は懲らしめよ、と説いている。
和をもって貴しとなす者は、同時に和を守るために、積極的に悪を成敗せよというのです。
そうでなく、眼の前に悪を見出しても、「まぁまぁ仲良く~♪」なんてことはしない。
悪を見たら、ちゃんと懲らしめよ!という。
これも、日本における「和」の心です。
「和」は、すべてのものにたいするものではない。
「和」を乱す者は、むしろ積極的に懲らしめる。
それが日本の心です。
日本の「和」の心は、決して甘いばかりではない。
和はもちろん大事です。
しかし、その心を理解せず、自己の言い分だけを言いつのり、和を乱す者は、「悪」なのです。
その「悪」は、早期に懲らしめなければならない。
戦後日本の道徳観が、現在のように地に落ち、メディアの反日偏向がここまで著しくなったのは、その「悪は懲らしめなければならない」という一点が、戦後日本に欠如していたのが原因なのかもしれません。
そうであるとするならば、ボクたちは、これからの孫・子の時代を守るため、むしろ積極的に悪を懲らしめていく必要があるのかもしれません。
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