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ノモンハンに向かう兵士たち
ノモンハン事件02

ノモンハン事件をご存じでしょうか?
この事件は、大東亜戦争の開戦に先立つ2年前の1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件です。
そしてノモンハン事件の話が出るたび、日本史や世界史の教科書、あるいはノモンハン事件について書かれた各種書籍には、次のように書かれている。
「旧式な装備しか持たなかった日本の関東軍が、ソ連軍の機械化部隊によって完膚なきまでに叩きのめされ完敗した」
「1万7000人もの犠牲を払い大敗を喫するという汚点を残しながら、日本陸軍はついに陸戦装備を近代化しなかったという愚行を犯した」
要するに、ソ連の近代的機械化部隊に、日本陸軍は完膚なまでに叩きのめされながら、その後も精神論に傾き、ついに陸戦装備を近代化することはなかった・・・・なんと日本軍はバカなんだろう、という論調が目立っています。
しかし・・・とねずきちは思うのです。
ソ連が、その自慢の機械化部隊で日本軍に圧勝していたのなら、どうして大東亜戦争の末期になって参戦したソ連は、わずかな手勢しかいなかった満州、樺太に120万もの大軍を出動させたのか。
ソ連が大勝利したというなら、どうしてその後、ソ連は大戦末期まで満州攻略を停止したのか。
ソ連がノモンハンで大勝利したというなら、どうして事件後の停戦協定の際、戦闘前の国境で停戦としたのか。
ノモンハン以前から、ソ連はシベリアから満州、朝鮮半島、樺太、北海道へと、その勢力範囲を伸ばそうと、種々の画策をしています。
もし、ノモンハンでソ連が「勝った」というなら、その時点でソ連が南下の動きを止めたことへの説明がまるでつきません。
従来、このノモンハン事件については、ソ連側の発表による日ソ双方の死傷者数がひとりあるきしていたようです。
そのソ連発表によると、
ソ連の損害  9,284名
日本の損害 52,000~55,000名
なるほど、この数字だけをみたら、ソ連大勝利、日本完敗に見えます。
ところが、ソ連崩壊後、あきらかにされたソ連の内部文書によると、なんと
ソ連の損害 25,565名
日本の損害 17,405名
そしてさらに、ソ連の「近代的機械化部隊」などというのも大ウソ。
戦車は、走行射撃もできない水準であり、戦車戦では全く問題にならず、日本軍の速射砲・高射砲のえじきになって、ソ連戦車は、約800台が破壊された。
ちなみに日本戦車の損害は、わずか29台。
これってどうみても、日本側の大勝利です。
また航空戦でも、ソ連のイ15、16は、一部は、布張り飛行機にほかならず、日本の九七式戦闘機に対して全く太刀打ちできなかった。
なんとソ連は、1,673機もの大損害を出している。
対する日本側の損害は10分の1の179機にすぎません。
なるほど、そうはいっても、日本側の死傷者は、戦死8,440名、戦傷8,965名の、合計17,405名に達し、大きな損害を出しています。
しかし、わずか3万の日本軍に対し、ソ連側は、いきなり30万の大軍を投入している。
10倍の敵です。
日本軍は、基本路線として「ソ連を刺激しない」という不拡大方針をとっており、結果として国境を越えようとしてきた30万のソ連軍に対し、日本軍将兵は、わずか3万の兵力で戦った。
そして、大苦戦しながらも果敢に善戦敢闘して、ソ連を叩きのめしている。
資料にあきらかな通りです。
捕獲したソ連戦車を前に万歳をする日本兵
ノモンハン事件03

そして日本は、ソ連のあまりの兵力の大きさに、戦力の逐次増強を図り、最終的に約6万の援軍をノモンハンに送った。
30万の機甲化軍団を、またたくまにわずか3万の兵力で粉砕されたことを知ったスターリンは、慌ててリッペントロップを通じてヒットラーに停戦の仲介を頼み込んだ。
そして不拡大方針をとる日本政府と軍中央は、一方的に国境侵犯攻撃をしてきたソ連軍の非をとがめること無く、この停戦協定に応じた、というのが歴史の事実です。
ついでにいうと、終戦直前、対日宣戦に参戦したソ連は、すでに装備も武器もほとんどない関東軍の攻略のために、120万もの大軍を派遣している。
スターリンが、どれだけ日本軍を畏れていたかが知れようというものです。
ノモンハンでは、増援部隊の集結を得て、反撃を期していた兵士は停戦命令に激高しています。
当時ホロンバイル地区でソ連・モンゴル連合軍と戦った23師団は、熊本に司令部がありました。
戦後、熊本日日新聞社が発行した『熊本兵団戦史』(昭和40年発行)によると、
「(ノモンハンでは)生き残った者の大多数が敗戦意識を抱いていない」と書いてある。
当時は存命の方が結構おられ、当事者のインタビューもある。
「ソ連軍には友軍同士の横のつながりがまったくない。隣の隊がどんなに困っていても、上から命令がなければ決して協力しない」
「(ソ連軍は)友軍機のおちるのがあっても、それを友軍機と思わぬ。おちるのは皆敵機と信じ込んでしまっている」
「野砲兵中隊は、のちのちまで敵戦車の数が多ければ多いほどエモノは多いと勇み立って、すこしも戦車を恐れなかった」
「ソ連兵が負傷すると大声で泣きわめくのでなんだ弱虫と笑った。格闘となれば(中略)1対1なら絶対勝つと確信していた。わが死傷者も多かったが、敵の死傷はさらに多かった」
そして、辻政信参謀など関東軍作戦課の面々は、作戦中止の命令を聞いて怒り心頭だったともいいます。
そして、この戦いで、さらにもっと重要なことは、この戦いの2年前の1937年、外モンゴルでモンゴル人による大規模な反乱があったことです。
この事件で、モンゴルでは、モンゴルの前首相・参謀総長を含む2万8千人が処刑されている。当時のモンゴルの人口は80万です。この事件で人口の4%近くが、ソ連によって殺された。
いまの日本の人口比でいったら、なんと500万人が虐殺されたのと同じことです。
そしてモンゴルでは、それまでの粛清を加えたら、なんと総人口の6%がソビエト共産党員によって、粛正=虐殺されている。
そしてノモンハン事件の年にも、モンゴルでは、約千人が参加した反革命蜂起が起こっている。
当時のソ連は、そうしたモンゴルでの粛清の仕上げとして、モンゴル人を楯にして満州に攻め込んだ。断固たる決意で30万の兵力を結集して満州を攻め獲ろうとしたのが、ノモンハン事件でもあるのです。
もし、この大兵力を日本軍が途中で停戦せず、完膚なまでに叩きのめしていたら、ソ連・共産党の外モンゴル支配は完全に頓挫していた。
そして、内蒙古・満州内蒙古人勢力と協力した、モンゴル親日政権が誕生していた可能性が高い。
つまりね、なにを言いたいかというと、共産主義政権や社会主義政権・・・これをボクは階級闘争主義政権と呼んでいるけれど、こいつらの言うことは、常にウソばかり。ねつ造ばかりである、ということです。
そしてね、こういう連中の話を真に受けて、日本軍はバカだったとか、負けてもいない戦いで、負けた負けたと宣伝する日本人は、もっとバカだといいたいのです。
そもそも、大勇気をもって10倍もの兵力を持った敵に対し、祖国を守るために勇猛果敢に戦い、大切な命を捧げられた英霊達に対し、こうした売国反日屋というのは、まさに失礼千万です。
彼ら反日売国の口舌の徒の冒頭記したようなノモンハンの英霊に対する失礼千万な言行は、我々日本人に対し、また世界の平和と安全を求めるすべての人々に対し、許しがたい愚行である!と申し上げたいのです。
ノモンハンの真実を知り、反日売国奴が許せないと思った方
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【杉之尾宜生】「辻政信遺書」が明かすノモンハンの真実
杉之尾氏は、従前のノモンハン評価を気にして非常に慎重に事件を語っています。
しかし、よく話を聞くと、↑の趣旨をきちんと語られています。

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