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靖国神社
靖国神社001

先日、会津出身の友人と話す機会がありました。
彼は、現憲法破棄・大日本帝国憲法復活、核武装実現、自衛隊の陸海空正規国軍化、教育制度の戦前回帰促進など、誰がどうみてもガチガチの右翼主義信奉者です。
彼は、大学以降、ずっと東京に住み、某会社役員を経て、いまは引退暮らし。
その彼が、言うのです。
「俺の家は代々靖国神社に参拝したことがねぇんだよ」(笑)
彼は、かなり顔の広い男です。しかし彼の友人で、会津出身者は、全員が靖国参拝をしたことがないという。
なぜかというと、彼らは会津の出身だから。
戊辰戦争(明治維新)の際、会津藩は、幕臣として薩長土肥の連合軍と戦いました。
有名な白虎隊を生んだのも会津藩です。
そして幕軍は負け、明治政府が誕生しました。
明治政府は、大村益次郎の建言によって、戊辰戦争で亡くなられた“官軍の”将兵を慰霊するために、明治2年(1869年)に「東京招魂社」を東京九段に創建します。
これが1879年(明治12年)に改名され、いまの「靖国神社」となった。
つまり、会津藩の武士たちや、奥羽越列藩同盟軍の武士たち、彰義隊、新撰組を含む旧幕府軍の戦没者は、祭祀の対象外。
だから、幕臣として戦った先祖を持つ彼らは靖国への参拝はしない。
そういえば、ねずきちは、以前、裁判所から呼び出しをくらった名古屋の某社長が、
「薩長の裁判所なんぞに、わしゃ絶対にいかにゃぁで」
と真顔で言われていた場に出くわしたことがあります。
なにも、いまさら140年以上の前の話など・・・と思う方もいるかもしれませんが、意外とこういうことは、しぶとく残る。
先祖の歴史といものは、かようなまでに重いものなのです。
そうは言っても、大東亜戦争での戦没者もあるでしょう、と言ったら、
「うん、そのことは申し訳なく思っている」とのこと。
どうやら、旧幕臣としてのこだわりだけのようです(笑)
その頑固者の彼が、「ワシは今年は靖国神社にいった」と言う。
7月にはいって、靖国神社の「みたままつり」に、行かれたというのです。
どういう心境の変化か聞いたら、
「旧幕臣に対する慰霊は、会津に帰郷して行えばよい。
日本がここまで反日勢力に貶められていて、
これ以上戊辰戦争にこだわるわけにはいかん」
で、大型献灯までしてきたとか。
(注:大型献灯=ちょうちんの献灯。大形ちょうちんと、小型ちょうちんがある)
靖国神社・献灯
靖国神社献灯

なので言っておきました。
靖国神社には、じつは会津藩士も祭られているよって^^
どういう方たちかというと、禁門の変で長州藩勢との戦いで戦死した会津藩兵らです。彼らは、朝廷を守護したとして祀られています。
禁門の変というのは、元治元年(1864年)7月19日に、京都御所で起きた事変です。
蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれています。
京都を追われた長州藩の久坂玄瑞らが、新撰組の池田屋事件で藩士を殺され、朝廷奪還を期して京都御所を守る会津・桑名藩兵と衝突。一時は筑前藩の守備する中立売門を突破して御所内に侵入を果たすけれど、薩摩藩兵が援軍に駆け付けると形成が逆転。長州勢が敗退した、という事変です。
この事件により、薩摩と長州は仲が悪くなるのですが、この両者の仲立ちをしたのが坂本竜馬で、彼の運動で薩長連盟ができあがり、いっきに明治維新が加速した。
靖国神社に祀られているのは、こうした戊辰戦争時の7,751柱、その中には、幕末の志士である吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども合祀されています。
一方で、明治維新の功労者でも、その後に反乱を起こし、あるいは反乱に加担した西郷隆盛や江藤新平、前原一誠らは祀られていません。
薩長土肥だから祀っているというわけではないのです。
この国を守るために戦っい、散っていかれた戦時の英霊を祀っている。
戦没者だから祀るというわけではない。そこには厳格な一線がある。
また、乃木希典、東郷平八郎といった著名な軍人や、八甲田雪中行軍遭難事件の遭難者など、戦時の死没者でないため祀られていない。
逆に、西南戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争における軍病院、病院船の従軍・救護看護婦など、戦争で犠牲になった女性たち、
および、沖縄戦でのひめゆり学徒隊、白梅学徒隊等の7女学校の生徒、南樺太での真岡郵便電信局事件の女性などの女性たち、57,000柱は、祀られています。
さらに、学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒や、輸送船「対馬丸」で沖縄から鹿児島への学童疎開中に敵潜水艦により撃沈された小学校児童達なども祀られています。
どうなんでしょうね。
こうしてみると、靖国神社というものの性格が非常によく表れているように思う。
靖国神社は、左巻きの方々に言わせると、「軍国主義礼賛のための施設」というイメージで語られるけれど、どうやらぜんぜん、違う。
「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創立された神社」(靖国神社HPより)という性格がはっきりと出ている。
「国家のため」ですから、哀しいけれど賊軍となった幕府側兵士は祀られない。明治政府にたてついた西郷隆盛も祀られない。
戦争礼賛ではない。そこには正邪の唆別が厳格なまでになされている。
旧幕軍はおろか、明治天皇が尊敬してやまなかった西郷隆盛すらも祀られていない。
このことには、正義とは決して甘くないという国家的決意が込められているような気がします。
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて参拝に訪れています。
その際に、陛下がお詠みになられた歌が、
 我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野に とむる玉かき

「靖国」という社号も明治天皇の命名によるものなのだそうです。。
「祖国を平安にする」
「平和な国家を建設する」
という願いが込められているといいます。
祖国を平安にすることも、平和な国家を建設することも、口舌の徒がペラペラとしゃべるだけで済むような甘いものではない。そこには正邪の識別が明確になされなければならない側面があるということを、わたしたちにはっきりと教えてくださっている。
なるほど残念なことに、戊辰戦争における旧幕臣は祀られていないけれど、明治維新以降、会津藩他、旧幕臣、奥州連合諸軍、桑名、筑前藩士たちは、こんどは政府の正規軍隊として、また、後方支援要因として、亡くなられた方の御霊は、男女の別なく祭祀されている。
過去のいきさつはどうあれ、その時点で日本のために戦った者は、祭祀の対象となる。
明治以降の厳しい戦いで、命を落とされた多くの英霊たちは、おそらくいまさら幕末の官軍だ、賊軍だという言葉にかまってなどいないと思います。
この国を守る。
そのことに、一致団結して戦い抜き、靖国神社に祀られている英霊、その数、なんと、246万6,532柱。
この国の危機に際し、亡くなられた英霊の方々のために、頭をたれ、いま起きつつある国難に立ち向かうことは、おそらく、戦いに散って行かれたすべての英霊の望むことではないかと思います。
実は、ねずきちの家も、旧幕臣です。
なので、ボクも長いこと、靖国には参拝していなかった。
父も、祖父も、曾祖父も、東京の文京区に住んでいながら、歩いて行ける九段の靖国神社には足を踏み入れたことがない。
でも、ボクもいまは、靖国神社に行き、御霊に頭を下げてきています。
この国を守るために命を捧げられた人々・・・靖国に祀られる人々は、決してそのすべてではないけれど、多くの英霊の祀られる靖国に詣でることは、確かに意義のあることだと思うからです。
そしてね、はっきりといえるのは、仮にこの国に、反日勢力と相互信頼主義の日本人勢力との間で、内乱が起きたと仮定したとき、反日勢力として亡くなられた方は、靖国に祀られることは決して、ない。
靖国は、正邪の唆別というものを、かくも厳しくわたしたちに、悟らせるものでもあると思います。
日本の、総理他、政府要人の靖国参拝は、きわめて政治的色彩の強いものだといわれています。
そして、本来、御霊への慰霊なら、8月15日ではなく、7月の“みたままつり”や新年祭、新嘗祭の方が適切なのかもしれない。
しかし、それだけ政治色が強い総理・閣僚参拝だけに、今年は、是非とも麻生総理に、靖国参拝を実現していただきたいと思うのです。
それは反日勢力にまさに乗っ取られそうになっている日本人の目を覚ますための、日本の首相の究極の戦いになると思うからです。
そしてそのことは、旧幕臣の家の者も、西南戦争で敗れた家の者も、みんなわかってくれる。
もはや意地をはっているときではない。
いまこそ、英霊たちとともに、この国に巣くう反日勢力という悪をくじき、この国の精神文化の復興を遂げるべきときがきていると思うのです。
麻生総理は靖国参拝すべし!という方
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金美齢女士 於 靖国神社(再掲)

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