
昨日、日の丸の記事を書かせていただきました。
やっぱ「日の丸」ときたら「君が代」☆
というわけで、今日は「君が代」について書いてみたいと思います。
実は、7月15日に書かせていただいた「大山巌元帥」と、この君が代、深い関係がある^^v
■大山巌・・・西郷の再来と言われた男
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-560.html
明治維新の頃のことです。
横浜の英国大使館護衛部隊に、軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton)という人物がいた。
フェントンは日本ではじめての吹奏楽の練習として薩摩藩の青年たちを指導していた。
それが「薩摩軍楽隊」で、実は日本初の吹奏楽団です♪
なにせ、楽器といえば、お琴や三味線、和太鼓、和笛くらいしかなかった時代のことです。言葉も通じない。さぞかしたいへんなご苦労だったことと思います。
「薩摩軍楽隊」は、フェントンの指導を受け、明治元年(1871年)には、「日本海軍軍楽隊」へと発展します。
翌明治2年(1872年)10月、フェントンは、大山巌に進言した。
「明治新政府になにか儀礼音楽が必要です。ついては、何かふさわしい曲を選んだらどうでしょう?」
「なるほど」とうなづいた大山巌は、数人と相談して、平素自分が愛唱している琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている「君が代」を選び、作曲をフェントンに頼みました。
ところがフェントンが作曲した「君が代」は、イマイチ評判が悪かった。
コラール風で、アイルランド民謡ぽかったのだそうです。
どんな旋律だったのでしょうね^^b
で、1876年(明治9年)に、海軍楽長・中村祐庸(すけつね)が「君が代」楽譜を改訂する上申書を海軍軍務局長宛に提出します。

中村祐庸は、こう書いた。
「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」
もちろんフェントンも同意の上です。
そしてようやく、1880年(明治13年)、明治政府は、宮内省雅樂課に委嘱し、課員数名の中から奥好義の作品が選ばれた。
選ばれたメロディに、一等伶人(雅楽を奏する人)の林広守が補作して、発表されたのが、いまに伝わる「君が代」です。
ちなみに、この曲に洋楽風の和音をつけたのは、当時音楽教師として日本に滞在していたドイツ人の音楽家フランツ・エッケルトです。
君が代の旋律は、いわばイギリス、ドイツ、日本の合作なんですね。
この曲については、次のようなエピソードがあります。日本の代表的作曲家山田耕作氏
は、若い頃ドイツに留学していました。
その頃、ドイツの大学の音楽教授たちが、世界の主な国歌について品定めをしました。
結果、第一位に選ばれたのが日本の「君が代」だったそうです。
さて「君が代」の歌詞です。
君が代の歌詞は、古く、平安時代の延喜5年(905年)に編纂された『古今和歌集』の『巻7、賀歌の初めに「題しらず」「読み人知らず」として、掲載されている。
ちなみに、『古今和歌集』は、実は、日本で初めての勅撰和歌集です。
醍醐天皇の勅命によって編まれました。
『古今和歌集』は、万葉集から撰者らの時代までの140年間の名歌を集めたもので、カナで書かれた“序”の執筆は、なんとまぁ紀貫之です。すごい!
『古今和歌集』は、天皇の勅命により、国家事業として編んだ最初の和歌集であり、平安中期の国風文化確立にも大きく寄与したといわれています。
『枕草子』には『古今和歌集』集を暗唱することが、平安中期の貴族にとって教養とみなされたとも記されている。つまり「君が代」も、それだけ著名だった。
そして君が代は、その後に編纂された、『新撰和歌集』にも、『和漢朗詠集』にも掲載された。名歌なんですね。
時代が下がり江戸時代になると、神様のお祭りや、仏様の供養、それに酒宴の席などでは、盲目の乙女や、琵琶法師が歌い、全国的に広く普及していた。
例えば婚儀の席で歌われるときは「君」とは新郎のことを指し、すなわち新郎の長寿と所帯の安息を祝い祈願する歌として用いられたんです。
大山巌は、フェントンの進言を受けたとき、きっと、薩摩琵琶の歌の『蓬莱山』の祝い歌の歌い出しにある「君が代」に、すぐにピンときたのでしょうね。
君が代は、当時においてもそれほどまでに一般的なものになっていた。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで
さて、「君が代は」でいう「君」とはなんでしょうか。
左巻きの人たちは、君とは天皇であり、この曲は天皇崇拝、軍国主義賛美の曲であると主張します。
しかし、君が代の「君」には、どこにもそんなことは書いてない。
「君」とは、友であり、親兄弟であり、恋人であり、妻であり、子や孫でもあります。
そしてそれらを統合した日本国民すべてであり、もちろん陛下でもあらせられる。
だから、そうした「君」が、千代に八千代に(未来永劫栄えるように、あるいは長生きして平和に幸せに暮らせるように)と詠んでいる。
歌う人は、永遠に守り抜くと、詠んでいる。
永遠です。
千代に八千代にです。
攻めることではなく、守ると詠んでいる。
実に平和的で、実にやさしくて、実にありがたい歌詞だと、ボクは思うのです。
愛するあなたを未来永劫守り抜くために、小石が固まって岩になって、苔が生えるまで、ずっとずっと・・・・なんて、愛の告白としても、最高です。
「さざれ石」というのは、細かな石です。
その細かな石が、固まって岩石になったものを「礫(れき)岩」といいます。
細かな小石が、岩になるのです。

その順序はこうです。
日本列島の周辺に地向斜という細長い海ができる。
そこに大陸から運ばれてきた小さな石(さざれ石)が堆積を続ける。
何千万年という長い間に、小石が圧力で固結して岩石となる。
そこが、やがて地殻変動で、隆起して山脈となる。
そしてその山脈から発見されるのが、さざれ石の“礫岩”です。
そんなにながい間、気の遠くなるような永い間、ずっとずっと君を守り抜く。
いや、それだけじゃない。その岩に、苔がはえるまでも、ずっとずっと・・・
ヾ(*`ω´*) オィ!!
このどこが軍国主義なんじゃ!!言うてみぃ!!(笑)
戦争云々をいうなら、どこの国でも、戦争のときは国歌を歌い、その軍隊は、国旗を掲げて戦争をしています。
実際、どこの国の国歌も国旗も、みな戦争につながっている。
ちなみに、シナの国歌は、次のような歌詞です。
【中華人民共和国国家】
立て、奴隷となるな
血と肉もて築かむ
よき国 われらが危機せまりぬ
今こそ 戦うときは来ぬ
立て立て 心合わせ敵にあたらん
進め進め 進めよや
なんともまぁ、血なまぐさい。
興味のある方は、曲を検索してみてください。
めっちゃ、勇ましい旋律にもなっています。
【アメリカ合衆国国歌】
見よや 朝の薄明かりに
たそがれゆく 美空に浮かぶ
われらが旗 星条旗を
弾丸降る 戦いの庭に
頭上を高く ひるがえる
堂々たる星条旗よ
おお われらが旗のあるところ
自由と勇気共にあり
これらにくらべて、日本の国歌「君が代」の、なんと平和なことか。
ちなみに戦争をいうなら、1480年(文明12年-室町時代)から、1941年の(昭16年)までの戦争の回数は、次のようになっています。
イギリス 78回
フランス 71回
ドイツ 23回
日本 9回
日本は、極端に少ない。日本はそもそも争い事を好まないんですよ。
そして明治天皇の有名な御歌・・・
四方の海
みなはらから(同胞)と思う世に
など波風の 立ちさわぐらむ
「みなはらから」です。
平和を希求し、人々が互いに争うことなく、人々が千代に八千代に栄えようとする陛下の御心が、この一首をみてもあきらかといえるのではないでしょうか。
話が脱線してしまいましたが、この「君が代」を国歌として認めないだとか、「君が代」を歌わないだとか、そういうヤカラは、ようするに、
日本の伝統を知らない(教養がない)、
平和を守る気持ちがない(好戦的)、
人を未来永劫愛するという心がない(愛を知らない)
つまり、どうしようもないクズであると、ねずきちは断じたいのです。
しかし残念なことに、戦後日本にはこうしたどうしようもないヤカラがいるから、平成11年(1999年)、「君が代」は、正式に国歌として法制度化された。
実は、それまで、君が代は、明治大正昭和にかけても、国歌とする法はなかったのです。
それでもみんなが「君が代」を国歌と思ってきた。
法があろうがなかろうが、幾百年にわたって、広い地域で多くの先人に歌い継がれてきた御歌が、興るべき時に稀世のメロディを得て、世界に認められる儀礼曲となった「君が代」です。
「君が代」の旋律と歌詞は、それだけ多くの日本人の心の歌となっていたのではないでしょうか。
「君が代」は、我が国一千年を越す歴史の所産です。
琵琶曲から、洋風曲となってからも129年用いられて、今日に至ったている。
すばらしいじゃありませんかっ!
わたしたち、いまを生きる日本人は、なにも木の股から産まれたわけじゃない。
親がいて、そのまた親がいて、そのまた親がいる。
代々続く伝統や先人達の努力のおかげで、わたしたちはいま、こうして生きています。
古今和歌集編纂から1100年。
綿々と歌い継がれた「君が代」が、私たちの住む日本の国歌であることは、わたしたち日本人の誇りといえるのではないでしょうか。
やっぱ日本て、いいなぁ~♪
♪ 君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで
素晴らしい祖国日本に乾杯!と思う方
↓クリックを↓


