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実は↓の記事は、昨日の午前0時50分に一度アップした記事です。
都議選のたいへん残念な結果を見て、昨日朝、記事を急きょ入れ替えました。
本日は、再掲になります。

今日は金原明善のことを書いてみようと思います。
金原明善は、静岡県浜松市の人です。
天保3年の生まれ。
6歳の時に寺子屋に通い、意味もわからず、「惻隠の心は、仁のはしりなり。仁をなすには、身を殺すべし。義をみてなさざるは、勇なきなり。」を暗証させられた。そしてその言葉が、金原明善の生涯の座右の言となったそうです。
1868年(明治元年)といえば、王政復古の大号令がかかった年であり、この年の1月には戊辰戦争が起こり、4月には五カ条の御誓文が発布された年です。
この年の5月、いまの静岡県浜松市に流れる一級河川の天竜川が大雨で決壊し、浜松、磐田に大被害をもたらしました。
金原明善36歳のときのできごとです。
住んでいる村を一瞬で流され、沈められてしまった金原青年は、この年誕生した新政府に希望を持ち、京都に上って天竜川の治水事業を民生局に建白します。
しかし、まったく新政府は相手にしてくれない。
浜松といえば、徳川氏のお膝元でもあります。いわば敵国。応対は木で鼻をくくったようなものだったようです。
ところが、8月に明治天皇の東京行幸が決まります。
まだ災害復旧ままならない浜松、磐田地方を、水害の惨状のままにしておくわけにいかない。
新政府は、急きょ、水害復旧工事に着手します。
金原明善は、この工事で優れたリーダーシップを発揮。10月には工事の大略を終わらせ、その功績によって、明治天皇行幸の浜松行在所時に、苗字帯刀を許される名誉をいただきます。
翌、明治2年に、金原明善は、静岡藩から水下各村の総代・又卸蔵番格を申付けられます。
そして明治5年には、浜松県から堤防附属を申付けられ、戸長役・天竜川卸普請専務に任命された。明治7年には天竜川通堤防会社を設立。金原明善42歳の出来事です。
金原明善は、オランダ人の河川技術者を招き、天竜川上流の森林調査を行います。
このとき金原明善は、荒れた山々を見て、川の氾濫を治めるためには、健全な森林を作る必要性を深く悟ったといいます。
良く整備された森林は「緑のダム」を呼ばれます。降った雨を森林内に蓄え、それを徐々に流す働きがある。
板の上の水は溜まって流れるけれど、スポンジがあれば、水を含んで溜めてくれる道理です。
明治10年、全財産献納の覚悟を決めた金原明善は、内務卿大久保利通に築堤工事実現のための謁見を求めます。
旧幕府領下の農民であり、絶対に叶わないとみられた内務卿への謁見は、大久保利通の快諾で実現。
幕府領であることや、旧農民であることとは関係なく、長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している金原明善の姿が、大久保利通の耳に入っていたからといわれています。
金原明善は、明治政府の全面的な後押しを得て、近代的な治水事業が始めます。
堤防の補強・改修、流域の全測量、駒場村以下21箇所の測量標建設等々。。
さらに金原明善は、自宅に水利学校を開き、治水と利水の教育を行います。
ところが、治水事業が安定し、水害の問題が解決に向かうと、流域の住民の水利争いが始まってしまいます。
住民の調整困難とみた金原明善は、1883年(明治16年)天竜川通堤防会社を解散。
しかし、堤防工事だけでは、治水事業は完成しません。大雨が降って万一堤防が決壊したら、ふたたび大水害が襲います。
どうしても、山間部の荒れ地に植林を行わなければならない。
1886年(明治19年)、54歳になった金原明善は、現在の龍山村の山奥にある、大きな岩穴で寝泊まりをしながら、山の調査を行います。
そして山間部の750ヘクタールに、スギとヒノキ併せて300万本の植林計画を作成します。
300万本の植林による森つくりは、苗木づくりから始まります。
土を耕し、苗畑にスギやヒノキの種をまきます。
苗ができるまでに2年もかかる。
さらに、苗木を植えやすいよう、荒れた山を整地します。
そのあとに、いよいよ植林です。苗畑で育てた苗木を植える。
大変手間のかかる作業です。
金原明善は、この植林のために全私財をなげうち、作業員の人たちと一緒に山小屋で暮らします。
率先して苗木を担ぎ、急斜面に一本一本植えていった。
こうした金原明善の姿を見た多くの人と浄財が、金原明善の元に集まり、3年目には8百人を越える人で、山は大変活気に満ちるようになった。
この間、雨で山が崩れることもあった。
暴風に叩きつけられ、育ちつつある苗木が根こそぎ倒れてしまうこともあったといいます。
植えただけでは苗木は大きくなりません。
雑草を刈るための下草刈り、つるきり、枯れた箇所への補植など、次から次へと、息つく暇もない。
しかし「良い森林を作ることが、多くの人々の生命と財産を守るんだ」との信念を持った金原明善は、負けることなく、多くの協力者たちと、ひとつひとつ困難を克服していった。
金原明善の事業経営の基本方針は、
(1) 身を修め家を斉えて後、始めて報効の道は開かれる。
(2) 事業には必ず資本を必要とする。
この資本は質素倹約を基調として求むべきものである。
そしてその事業が大きくなるに従ってしの資本は共同出資方式にならねばならぬ。
(3) 事業の発展進歩はその事業に携わる人々にある。
そしてこの人物の育成は教育に俟たねばならぬ。
というものだったといいます。
金原明善は、1923年、92歳で亡くなります。
今から100年も前に、暴れ天竜川を治めるために森づくりを行った明治の気骨。
金原明善の行った治水・植林事業は、今もなお、遠州平野の水害を食い止め、町の発展に寄与しています。
まだまだ士農工商の身分制の厳しい中にあっても、幕府領の一介の領民であっても、多くの人々の生命と財産の安全を守るために生涯を捧げて行きぬく。
そういう生き方というものは、やればできるものなんだ、ということを、なぜかあらためて考えてみました。
このブログで何度も繰り返していることなのですが、金原明善氏のような気骨あふれる精神は、日本に古くからある「相互信頼主義」に、その心をみることができます。
相互信頼主義というものは、自分自身が、人々の信頼に応えうる人間になろうとするところから出発します。
たとえば、上司に叱られる。叱られた側は、自らを恥じ、自分に落ち度がなかったかをしっかり考え、より一層上司や会社に貢献できる人材になろうと努力する。言いかえれば、上司の信頼にこたえ得る人材になろうと努力する。
叱った上司も、叱らなければならない状態を迎えた自らの不明と指導力の欠如を恥じ、さらに一層、部下に信頼されうる人間になろうと努力する。
金原氏のケースでいえば、自らのすべてを賭してでも社会に貢献できる自分になろうとする。自らが率先して社会の信頼にこたえ得る人間になろうと努力する。
こうした考え方が、日本社会の根幹をなしている。いや、かつて日本は根幹をなしていた、ということを、ねずきちはお伝えしたいのです。
相互信頼主義に対するのは、「階級闘争主義」です。
共産主義、社会主義、反日思想、中華思想等のすべてが、この「階級闘争主義」に分類されます。
階級闘争主義では、先ほどの例でいえば、上司に叱られた部下は、叱られたことを、まず、理不尽であると、決め付けます。そして自らの不明をいっさい恥じることなどなく、叱った上司を批判する。そこに信頼関係などカケラもありません。
上司も、部下を信頼していませんから、部下が言うことをきかなければ、厳罰をもって臨む。上司は部下の悪口を言い、部下は上司の悪口を言う。
なにせ上司と部下は階級が異なります。そして異なった階級の者は常に闘争し、相手を非難し、批判する。
こうした階級闘争主義的思想に染まった人間集団からは、金原明善のような人材は、絶対に輩出されません。
なぜなら、天竜川が氾濫し、多くの人々が犠牲になったのは、施政者が悪いからであり、庶民は施政者を批判し、非難することが優先されるからです。
自らの手で水害に対応しようなどとする人間は、階級闘争主義者にとっては、わけがわからない狂信者にしか見えない。必要なことは施政者への闘争であり、水害対策を怠った施政者をいかに追い落とすか、という発想にしかなりません。
施政者も、そうした批判や非難ばかりを繰り返す民を信頼できません。
ですから施政者は、水害対策よりも、自らの身の安全を図るために、まず、何よりも部下の誰かに水害の責任をなすりつけ、自らの責任を回避しよとします。
そして水害の被災者に対しては、災害復旧よりもまず、施政者への批判者を弾圧しようとします。そう、ウイグル族の反乱への弾圧や、天安門事件の弾圧のように。
日本は、相互信頼主義の国です。すくなくともかつての日本はそうでした。
たぶん、今日明日にでも、国会では内閣不信任案が民主党から提出されるものと思います。
そうやって国民に内閣や与党への不信をあおる。
政治と庶民の隔絶を図ろうとする。
肝心の景気対策はどこへ行ったのか。サミットにおける日本の貢献は、いったいどこへ消えたのか。
相互信頼主義のもとであれば、政治手法に隔たりがあるとはいえ、やらなければならない景気対策や国際貢献、あるいは北朝鮮の核開発、ミサイル発射問題に対しての取組みが、与野党ともに優先されるはずです。そうでなければおかしい。
そのうえで、対応方向に違いがあるなら、これをもって国民の信を問う。それが選挙です。それが、国民の仕度を受けた国会議員のあるべき姿です。
ところがいま日本で起っているのは、景気対策そっちのけ、国際貢献そっちのけ、北朝鮮の核問題そっちのけ、北のミサイルへの危機管理そっちのけ。
そして何が問題になっているかというと、総理が解散をしないのが問題だ(笑)。
なにかが間違っている、と思いませんか?
最大の問題は、教科書、教育、メディア等々、日本のありとあらゆるところにまん延した階級闘争主義にあるのではないか。ねずきちはそう思っています。
そして階級闘争主義は、家庭の中まで蔓延している。
夫婦の間の階級闘争、親子の間の階級闘争、恋人同士の階級闘争・・・
夫婦や親子、恋人同士、すべてにわたって、その基礎となるべきは、相互信頼にあるはずなのに、子は親を批判し、女は男を批判し、男は女を批判する。
互いに批判し、いがみ合い、相手を利用することだけを考える。
そんなねじまがった社会に、いつどうしてなったのか。
そしてそんなねじ曲がった社会構造を、わたしたちは子や孫に残すのか。
わたしたちは、もういちど、そこのところをしっかりと考えなおしてみなければならないときにきているのではないでしょうか。
歴史に学び、日本を守ろうと思う方
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