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ナチスの迫害を逃れ、
上海の「日本租界」にはるばるやって来た
ドイツ系ユダヤ人たち
日本租界

1937年秋。
ドイツの軍靴がチェコ、ポーランドと進むにつれて、数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になりました。
ところが・・・・
彼らの目指すアメリカ、中南米、パレスチナなどは、入国査証の発給を非常に制限し、ユダヤ人の入国を拒否した。
英統治領パレスチナなどは、海岸に着いたユダヤ難民船に、陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為まであった。
こう書きだすと、「おっ!、映画“シンドラーのリスト”の杉原千畝氏の話かと思うかもしれませんが・・・・ちがいます。日本軍が行った人道支援は、それだけではないのです。
陸軍中将 樋口 季一郎氏
樋口 季一郎

1937年12月26日、日本の関東軍の認可によって、第1回極東ユダヤ人大会が開かれました。
3日間の予定で開催された同大会に、日本陸軍は「ユダヤ通」の安江仙江陸軍大佐をはじめ、樋口季一郎ハルピン陸軍特務機関長(少将)らを派遣。
この席で樋口氏は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策に対し、
「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」
と激しい批判演説を行ったといいます。
これを知ったドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議した。
ところが、樋口氏の上司に当たる関東軍参謀長・東條英機氏は、かたくなに樋口少将を擁護。日本との同盟関係崩壊を怖れたドイツも、それ以上の強硬な態度に出ることはできなかったといいます。
1938年3月、数千人のユダヤ人がナチスの迫害下から逃れて、ソ連と満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで避難してきました。
彼らの亡命先である満州国は、外交部が入国の許可を渋り、ユダヤ人たちは、吹雪の中で、足止めをくらった。
樋口少将はこの報告を聞くと、直ちに直属の部下であった安江仙江陸軍大佐、河村愛三少佐らとともに現地に向かい、即日、食糧とと衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施した。
そして、膠着状態にあった満州国内への入植を斡旋し、上海租界への移動の斡旋等を行なった(オトポール事件)。
日本海軍は、上海の虹口(ホンキュー)地区の警備を担当していました。
そして1938年当時、ユダヤ難民が入国査証(ビザ)なしに上陸できたのは、世界で唯一、上海の虹口地区だけだった。
犬塚惟重犬塚惟重
(いぬづか これしげ)・海軍大佐

1939(昭和14)年、犬塚惟重海軍大佐は、上海ユダヤ首脳部から午餐の招待を受けました。
ユダヤ避難民委員会副会長M・スピールマンが、ヨーロッパ各国を歴訪した結果を聞く集まりだった。
スピールマン氏の報告は非常に悲観的なもので、9月の第2次大戦の勃発により、パリやロンドンのユダヤ人団体からの上海への送金も途絶え、アメリカのユダヤ人団体からの上海への送金もいつ停止するか分からない。難民を受け入れてくれる国もないというものだった。
万策尽きた段階で、犬塚大佐が、
「一つ私からの提案がある」と切り出した。
「アメリカに日本の必要物資を供給させることができれば、私はユダヤ難民に満洲国かChinaの一部をユダヤ人居住区として開放し、まず試験的に2,3年にわたり、毎年約1万5千人ぐらいの避難民を移住させる案を考えているが、皆さんはこれを支持できるだろうか?」
翌々日、満洲ハルピンで、第3回極東ユダヤ人大会が開かれた。
大会は、日本、および満洲帝国が人種的、宗教的差別をせず、各民族に平等に権利を認めている点を感謝する決議を行った。
その間に秘密代表会議が開かれ、犬塚大佐の案に基づいて、日本政府にユダヤ人居住区設定の請願をし、アメリカのユダヤ人社会に協力を求める決議を行った。
<決議文抜粋>------------------
大日本帝国が極東在住ユダヤ人に対して、八紘一宇の国是に基づき、人種平等の主張を堅持し、何らの圧迫偏見なく、大なる同情をもって保護を与え居らることは、我ら同族の感謝に堪えざるところなり。
帰るに国なき我ら同族に対し、大日本帝国の尽力により極東いずれかの方面にユダヤ民族のため、一部の地域を設定し、安居楽業の地を与えられなば、我ら全世界ユダヤ民族の幸福にして永遠に感謝するところなり。・・・
1939年12月25日
極東ユダヤ人代表会議議長 カウフマン
大日本帝国内閣総理大臣阿部信行閣下
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他方、アメリカのユダヤ人指導者ステファン・ワイズ・ユダヤ教神学博士は、米国のユダヤ指導者階級の中心人物のみならず、全世界ユダヤ民族の指導者ともいうべき人だった。
ルーズベルト大統領ある所には、必ず影のようにワイズ博士がついていたと評され、米国政策を左右する実力を持っていた。
ところがこのワイズ博士、頑迷な反日主義者だった。
1938(昭和13)年10月、米国ユダヤ人代表会議での対日態度決定の討議でも、ワイズ博士がただ一人、対日強硬姿勢を主張したため、遂に未決定に終わったこともあったといいます。
ところが、上海のユダヤ人指導者から犬塚提案がもたらされると、ワイズ博士の態度は大きく変わった。
東京在住のユダヤ人を通じて、次のような回答がもたらされた。
「ユダヤ避難民問題を日本が解決してくれるという案なら、それが日本の権威ある筋よりの提案なら、我らユダヤ機関は深甚の考慮を以て受理します」
またワイズ博士は友人に、
「もし真に日本政府が満洲国においてユダヤ避難民問題の解決に興味を有するなら、公然と日本の友たるべき決心をしていると、伝えたといいます。
しかし、ワイズ博士の思いも、アメリカの対日制裁の前に、実現が拒否されます。
ワイズ博士は次のように言って、肩を落とした。
「実は日本当局が上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種偏見を持たず、公平に扱ってくださる事実はいろいろな情報でよく知っていました。
その好意に深く感謝し、今回の借款でその恩に報い、われわれの同胞も救われると期待していました。
しかし今日の米国政府首脳や一般米人の反日感情の大勢に逆行する工作を行う力はありません。」
それでも犬塚大佐は、地道なユダヤ人保護の活動を続けます。
この年の7月26日、犬塚大佐のもとに、上海ユダヤ中でも最高の宗教一家アブラハム家の長男ルビー氏から一本の電話がはいります。
「宗教上の大問題でぜひ会っていただきたい」
ポーランドがドイツとソ連に分割され、ミール神学校のラビ(ユダヤ教の教師)と神学生ら約5百人がシベリア鉄道経由でアメリカに渡るために、リトアニアに逃げ込んだという。
そしてアメリカへの便船を待つ間、日本の神戸に滞在できるように取りはからっていただきたい、というのが、ルビーの依頼であった。
宗教上の指導者ラビと神学生を護ることはユダヤ人にとって大切なことです。
「よろしい」と犬塚大佐は答えます。
「ユダヤ教の将来のために、さっそく関係当局を説得しよう。期待して待っていてよろしい」
大佐が胸を叩くと、ルビーは涙ぐんで「アーメン」と指を組み、伏し拝まんばかりに感謝したといいます。
犬塚大佐は外務当局に働きかけ、公式には規則を逸脱したビザ発給は認められないが、黙認はすることとなった。
この情報が上海のユダヤ首脳部を通じて現地にもたらされ、神学生たちは8月中旬、リトアニアの領事代理・杉原千畝氏からビザを受けることができました。
ちなみに杉原氏は、この「黙認」の工作を知らされず、発給規則逸脱で職を賭して「命のビザ」を書き続けたのです。
ユダヤには古くから『ゴールデン・ブック』というものがあります。
ゴールデンブックには同族(ユダヤ人)の出身で世界的に傑出した人物の名を代々登録され、その功績を永遠に顕彰する。
ユダヤ人しか登録されないはずのゴールデン・ブックに、6名の日本人が登録されています。安江仙弘陸軍大佐、樋口季一郎陸軍中将、小辻節三博士、内田康哉外務大臣、手島郁郎、古崎博。
そして、犬塚大佐にも、ユダヤ人保護工作への感謝から、ユダヤ人の恩人としてゴールデン・ブックに記載したいという申し出があったそうです。
しかし、犬塚大佐は、
「私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、しいて名前を載せたければ陛下の御名を書くように」 と、これを固持しました。
日米開戦後も犬塚大佐のユダヤ人保護工作は続きました。
1942年1月、ナチスがユダヤ人絶滅の決定をした頃、上海ユダヤ人絶滅のためにドイツで開発したガス室を提供するという申し出があったそうです。
犬塚大佐は、断固としてこれを阻止してくれた、というユダヤ人の証言もあります。
大戦中も「上海は楽園でした」という詩を当時の難民生活を経験したユダヤ人女性が残している。
その楽園の守護者は、海軍大佐犬塚惟重氏だったのです。
八紘一宇というのは、「八紘」=世界、「一宇」=ひとつ、つまり、世界はひとつという概念です。
そしてこんかいご紹介したような八紘一宇の精神に基づく、無償の日本軍人の平和貢献は、無数にあります。
杉原氏、安江氏、東条氏、樋口氏などの功績を、後日またご紹介していきたいと思います。
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日本の童謡が好きなユダヤの女の子

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