
実は昨日のことです。
ある二人組の、実に立派な二人の青年とお会いしてお話する機会がありました。
ふたりともきちんとスーツを着こなし、背筋がピンと伸びていて、顔だちも品がよく、髪の毛も7・3や6・4にきちんと手入れされていて、とっても清々しく、どっかの上場企業のエリートサラリーマンかと思った。
いや、どっからどうみても、エリートサラリーマンなんです。
ところが、話してみるとこのお二人、なんと日本最大の広域指定暴力団の正規組員!(笑)
いやはやなんとも・・・・^^;
てかこれには実は、前おきがあって、たまたま仕事で外に出たときに、某有名女子高の近くを通った。かつて名門といわれた(もしかしたら今も?)女子高校なのですが、ちょうど下校時刻とみえて、校門から続々と女子高生たちが出てくる。
若くて、溌剌とした10代の青春真っ盛りで清純で清潔感漂う乙女たち・・・のはずなのですが、門からぞろぞろと出てくる彼女たちのセーラー服姿が、なんだかものすごくみっともない。
みすぼらしい。
貧相だし、エネルギーのようなものがまるで感じられない。
一緒にいた友人に、うーん、あれはいったい何だろう?・・・と問いかけたら、彼いわく、
「なんだか捕虜収容所から出てくる棄民の群れだな・・・・」
しまりがないのです。きちんと着こなしたらそれだけでかっこいい制服を、それぞれの子供たちが勝手気ままに崩して着ている。
はじめ、こう思ったのです。昔はいまと比べて気温が低かったから、制服もちょうどよかったけれど、いまどきは熱いから制服やブラウスが汗で汚れて遠目に見ても不衛生にしかみえないのかな、と。
でも、違うんです。
かならずしもそうとばかり言えない。
内側からにじみ出てくるエネルギーのようなものがない。
う~む・・・と思っているところへ、たまたま同じ日に、その広域暴力団の方とお会いすることになった。
まぁ話の内容は、たいした話じゃないし、おそらくもう二度とお会いすることもないのだろうと思うのですが、そこでひとつ気付いたことがある。
なにかというと、昔は、歪んで見えた彼らが、おおかたの制服10代の若者たちよりも、ずっとずっと正常でしっかり者に見える時代になっている・・・ということです。
で、なぜだろうと考えた。
出てきたねずきちなりの結論は、次のようなものでした。
・人というものは、なんらかの共同体に帰属して生きている。
・帰属する共同体の中で切磋琢磨し、人間は鍛えられ、成長する。
・ところが個人主義に育った若者には、その共同体への帰属意識がない。
・結果、おなじひとつの学校の生徒でありながら、個々がバラバラで統一性を欠き、結果、個々が貧相で見苦しく矮小で没個性になってしまっている。
個性化教育だの、教育の世界からの競争の排除だの、いろいろともっともらいいことが言われて戦後、教育が改革されてきて、その結果がこれ??
いまどきの子供たちだから、シャンプーもリンスも、ボディソープも、身の周り品もきっと昔では考えられないような高品質なものを使っているのだろうし、おそらくひとりひとりの容姿は、きっと昔と比べたら格段にきれいになっているだと思う。
ところが、活気がない。活き活きしていない。まさに捕虜収容所からゾロゾロ出てくる棄民の群れでしかない。
思ったのですよ。人間というものは、鍛え上げられてこそ人間になる。
これから野球をはじめようとする少年たちには、やはりまずは野球のルールを叩きこまなきゃならない。
「さぁ、みなさん、これから野球をするので、野球のルールはみなさんで考えてくださぁい」などという、いっけんやさしそうにみえる教育などというものは、実は、やさしくもなんともなくて、子供たちの未来を壊すものでしかない。
人としての道徳心を叩きこみ、
一旦緩急アレハ
義勇公ニ奉シ
以テ天壤無窮ノ
皇運ヲ扶翼スヘシ
そういう覇気のある人材というものは、いまの芯を失った学校教育からは絶対に出てこない。
人は、共同体への帰属意識を持ち、自らの所属する集団に恥じない生き方をしようとするところに、美しさが生まれ、そこにほんとうの意味でのやさしさも生まれる。
戦後の日本は、間違った。個性を尊重し、個人主義こそ人々の幸せという概念は、結果として教育を荒廃させ、市民生活の危険を増大させ、国の荒廃を招いている。
つらつらとそのようなことを考えました。
■関連記事:古くて新しい教育勅語と日教組
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-491.html
人間て、ただ自分のために生きようとすると、卑しい生き物になってしまうとは、三島由紀夫の言葉です。
自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬほど人間は強くない。
人間は、なにか理想なり、なにかのためにということを考える。自分のためだけに生きることにはすぐに飽きてしまう。
昔の日本人は、子どものころから「大義」を教え込まれた。それが血肉となって生涯をかけて正しく生きようと努力した。
学校でいちばん教えなければならないことは、実はそういうことなのではないか、と思ったりします。
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