
ワシントンタイムズによると、北朝鮮が最近「スーパーノート」と呼ばれる精巧な偽の米百ドル札の流通を活発化させ、国防委員会の呉克烈副委員長がこれを主導しているのだそうです。
同紙によると「金総書記の腹心」である呉副委員長は、次男や義理の息子らを使い、北京やマカオを舞台にした偽札や麻薬などの違法取引を指揮。
呉副委員長は朝鮮労働党の作戦部長も務めており、偽札は作戦部が管轄する工場で印刷されているのだとか。
昨年11月には韓国・釜山で1万枚もの精巧な偽百ドル札が押収されるなど、韓国を取引の拠点とする兆候もある。偽札や麻薬取引によって得られた収入は、金総書記が使う外車やヨットなどぜいたく品購入のほか、通常兵器や大量破壊兵器の開発にも充てられているといいます。
■関連記事:偽ドル札の流通活発化 北朝鮮、国防幹部が主導
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090603/kor0906031038006-n1.htm
もう完全に、国家ぐるみの犯罪帝国ですね。
この北朝鮮を理想国家と絶賛した朝日新聞社や、いまだに北朝鮮万歳の社民党は、こうした事実をいったいどう考えているのだろう??
このブログでボクは、ときおり「在日○○人は・・・」とか、「特ア国は・・・」とか書いています。
その一方で、半島人でも立派な人はいる、中国人でも立派な人はいる、また、日本人にも、悪い奴はいる、というようなことも書いています。
読者の方の中にも、ときおり同様の趣旨で、在日や特アを「悪」と決めつけることに抵抗を示したコメントを書かれる方もおいでになります。
日本人だって悪い人はいる。だから在日と特定して「悪」と決めつけるのはよくないことなのではないか、という議論です。
それはおっしゃるとおりです。「正しい議論」でもあります。
しかし、その議論は、ものすごく大切なことを見落としています。
一昨日、ボクは「隠匿あれば陽報あり」(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-518.html)という記事の中で、タイのあるホテルで、漫画部屋に置いてあるマンガ本を勝手に部屋に持ち帰ってしまう日本人の話を書きました。
実際に部屋に本を持って行ってしまった日本人は、ほんの数えるほどなのだろうと思います。もしかしたら、そのホテルに滞在したたったひとりが犯人だったのかもしれない。
ところが、そのほんのひとにぎりの人の無節操のために「日本人はマナーが悪い」と、そのホテルに宿泊する日本人全員が、警戒され、「日本人は・・・」と一般化されてしまう。
このことは、善業、悪行のどちらにもいえることです。
このブログでご紹介した、日本のトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難救出事件の話((http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-502.html)、終戦直後のシンガポールでの二見可南子さんのお話(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-408.html)、動画でご紹介した戦時中のパラオのお話(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-510.html)など、いずれもたったひとり、あるいはほんの数人の行動が、語り継がれ、国家に信用と信頼をもたらしている。
つまり、たったひとり、あるいはほんのひとにぎりの個の行動は、全体にものすごくおおきな影響をもたらすということです。
在日にもいい人はいる、日本人にも悪人はいる、という議論は、そういう個と全体の関係を見落としている。
そんな理不尽な、と思われるかもしれない。
しかし、同様な例は、周囲を見渡せばいくらでもある。
勤務先の会社で、誰かが傷害事件や情報漏洩事件をはたらけば、自分はやってなくても「あの会社の人は・・・」といわれてしまう。
たったひとりの警察官が不祥事を起こせば、国内にいる数万人の警察官全部が、悪人のように言われ、警戒されてしまう。
たったひとりの凶悪犯が、小学校の正門に生首をおけば、全国の小学校で、放課後の校庭が閉鎖され、すべての小学生が集団登下校をすなければならなくなる。
「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」
個人主義的発想からすれば、凶悪犯をしたのは、○○がやったことで、自分はまっとうに生きている、となるのだろうけれども、ひとは決して自分ひとりだけで生きているのではないのです。
そんな甘いもんじゃない。
凶悪な犯罪を犯した在日がいれば、多くの人は「だから在日は・・・」と言う。
海外で不祥事をはたらく日本人がいれば、「だから日本人は・・・」といわれる。
そしてその個の事件が、ほんの数件重なっただけで、その国の人全部、その集団に帰属する人全部が、よきにつけ、あしきにつけ、同様の色眼鏡で見られてしまう。
世の中というものはそういうものです。
だからもし、在日にだって良い人はいる、日本でまじめに努力している人はいくらでもいる・・・というなら、そう思う在日の方々おひとりおひとりが、襟をただし、自分たちの集団から、絶対に犯罪者を出さない、仮に出したとしても、自分たちのコミュニティで、即座に犯罪者をつきとめ、警察に突き出す、自らの集団で悪行を働くことは絶対に許さないようにしないいといけない。
ましてや、たったひとりの犯罪者等で自分たちがいろいろ言われるのは「差別」だ、なとというのは、まさに本末転倒でしかない。
もし「差別」というなら、「差別」されないように自ら襟をただすことが大切で、「差別するほうが悪い」というのは、善を悪に、悪を善にすり替える、それこそ不当な議論でしかない、と思うのです。
会社の中で、若い新入社員は、一生懸命働いても給料が安い。
古参のおじさんたちは、たいした仕事もしていなくても給料が高い。
だから会社は若い社員への差別を撤廃し全社員に同じ給料を与えなければならない、あるいは実力本位の給与体系にしなければならない、などという議論は、いっけん、ものすごくもっともらしいように聞こえるけれど、実はばかげている。
たいせつなことは、会社全体が高賃金を賄えるように成長していくことなのであって、そうなることで全体の給料も個の給料もあがる。
内部で対立したところで、なんの意味もない。みんなで力をあわせて会社を成長させ、そうすることでみんなでその果実(利益)を分け合う。
古参の人たちの努力のおかげで会社があり、そのおかげで若い社員は、その会社に採用しれもらうことができた。
だから自分たちの給料が安いだの差別だのと騒ぐ前に、努力して成績をあげ、自分たちが古参になったときに、会社がもっといい給料で、もっと多くの後輩を養えれるように努力することを考えなさい・・・そういう思考が、日本的思考だと思うのです。
そしてただのひとりでも、過ちを犯せば、それは会社の恥であり、地域の恥であり、親戚の面汚しであり、みんなが迷惑することである。だからひとりひとりが襟を正して、日々、過ちのない人生を送る。
そうして、そういう考え方というものは、日本人の気質に備わったものというよりも、日本の教育が、日本人をそういう考え方に育ててきた。
その教育の原点は、教育勅語に見出すことができる(関連記事:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-491.html)。
何事でも他人のせいにしたり、差別だの不当だのと騒ぐのは簡単です。
しかし、そういうことでは何の問題も解決しない。
ひとは、ひとりひとりが木の股から生まれてきたわけではないし、ひとりで生きているわけでもない。
かならず何らかの共同体に帰属して生きている。
その共同体に、恥をかかせない。ひとりひとりが所属する共同体への感謝の思いを新たに、襟を正して生きる、そういう、人としての生き方、あるいは、国家としての姿勢は、まさに「斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス、朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ、咸其ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」(かかる道は、祖先の遺訓であり、私達子孫の守らなければならないものです。この教えは古今を通じて変わらぬ正しい道であり、日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道です。私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります)【教育勅語】の精神そのものなのだろうと思います。
冒頭紹介した北朝鮮の国家ぐるみの偽札作りなど、まさに言語道断の振る舞いです。
こうした行為を恥ずかしい行為と思わない国家というものは、やはり、世界の常識として、許すべきじゃない、そのことは、多くの日本人に共通の認識だろうと思います。
しかし、それは日本人の常識なのであって、北朝鮮の常識ではない。
北では、金正日氏の贅沢のためなら、すべてが許されるというのが常識です。
いま日本で、友愛とか、世界に向けて日本を解放するとか、わけのわからない論を展開している人がいますが、それは理想論でもなんでもない。単なる売国論です。
我々日本人は、日本人の矜持を守るためにも、いまこそほんとうに、目をさまさないといけない、と思います。
←クリックを♪
コメントは受け付けていません。

