
沖縄では、米軍の本土上陸前に、実に凄惨な戦いが行われました。
戦いは1945年(昭和20年)3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了した。
実に3ケ月にわたる戦闘でした。
使用された銃弾の数は、米軍側だけで2,716,691発。
このほか、砲弾6万18発、手榴弾392,304発、ロケット砲弾20,359発、機関銃弾約3,000万発弱が発射され、さらに地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われました。
沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人。そのうち9万千人が民間人の犠牲者です。
この沖縄戦に対するイメージは、6月23日に自決して果てられた沖縄守備軍司令官牛島満中将の最後の言葉、
「…爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ』
この言葉が、なぜか「最後の一兵まで戦え」という言葉に置き換えられ、これによって、多くの民間人が巻き込まれ、戦場が凄惨を極め、死傷者が拡大したかのごときイメージが伝えられている。大嘘です。
すでに沖縄方面海軍部隊司令官の大田実少将さえも、海軍次官宛に有名な
『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』
という訣別電報を打ち、豊見城の海軍司令部壕内で6月13日頃に自決していた。
牛島中将の「最後マデ敢闘シ」の言葉が発せられた時点というのは、すでに司令部も壊滅し、指揮系統は混乱を極め、軍の統制はなく、通信環境も壊滅している状況だった。
沖縄本土の9割以上がすでに米軍に抑えられていた。
それでもなお戦闘が継続したのは、なぜだったのか、というのが今日のテーマです。
軍の将校たちが自決して果て、それでも個々の部隊や兵士達が自分の判断で戦闘を継続し、多くの民間人も、劣勢となってなお軍人さんに庇護を求め続けた。そして多くの犠牲者を出した。
牛島中将の最後言葉は、「最後の一兵まで戦え」という趣旨だったのだという「翻訳」ばかりが強調されているけれど、原文を読めば、まるで意図が違います。
爾後各部隊は、
各局地における生存者の上級者がこれを指揮し、
最後まで敢闘し、悠久の大義に生きるべし
まさに、この「大義」があったからこそ、沖縄の日本兵は最後の一兵卒まで戦いに戦い死んでいった。
そしてこのことを縦糸とするなら、もうひとつの横糸が、戦争の野蛮さというものであったろうと思うのです。
沖縄戦が始まる8か月前、サイパン島が陥落しました。
ここでも、民間人を含め、多くの人々がなくなった。
このときの様子を、サイパン戦に参加した陸軍大尉田中徳裕氏が、手記を残されています。
----------------------------------------
凄絶極めたサイパン 米兵、婦女子らに残虐行為
昭和19年7月9日
三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。
婦女子が全員、素っ裸にされた。
そして、無理やりトラックに積み込まれた。
婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。
婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。
ガソリンがまかれ、火がつけられた。
飛び出してくる老人子供たち。
その悲鳴……。
米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。
あの投降勧告は一体なんだったのか。
常夏の大空をこがさんばかりに燃え上る焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。
残虐な行為は凄絶をきわめた。
火から逃がれ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。
かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴(け)り飛ばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。
二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。
「ギャッー!」という悲鳴。
人間がまるで蛙のようにまたさきにされ殺されていく……。
彼らは、それをやっては大声で笑った。無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。
7月11日
東の空が白むころ、追いまくられた住民がマッピ岬にむかって死の行進をはじめた。
数百、いや数千人はいたろうか。
もう、だれの制止もきかない。
魔術にでもかかったように、怒濤岩をかむマッピ岬に立った。老人が先頭をきった。
「天皇陛下萬歳、皇后陛下萬歳!」
と叫んだかと思うと、海中めがけて飛び込んだ。
我々が潜んでいる洞窟のすぐななめ上である。投身自決は、次々とおこなわれた。
後から後から、子供も、婦人も、押されるようにして飛び込んでいく。
その海中に、群れをなしたサメが泳ぎまわっている。
海はたちまちまっ赤に染まり、飛び込んだ人たちは次々と食いちぎられて沈んでいく。
---------------------------------------------------
マッピ岬とは、のちに「バンザイクリフ」と呼ばれるようになるサイパン島の最北端の岬です。田中徳裕氏の手記には、ほかにも青竹に串刺しにされて死んでいる婦人の姿など、凄絶な場面が綴られています。
ここで忘れてならないのは、このような場面を目撃した日本人の中で一番多かったのが、ほかならぬ沖縄の人たちであったということ。
生き残った彼らが、サイパン島での玉砕の様子をさまざまな形で、故郷の親戚や縁者に怒りと悲しみをもって伝えていた。
つまり、米軍上陸の前から、沖縄をはじめ日本人は敵軍の「鬼畜行為」におびえていた。
---------------------------------
マックス・ヘイスティングス(イギリスの歴史作家)著
「ネメシス 日本との戦い 1944―45年」
ハーパースプレス社、ロンドンからの引用
---------------------------------
沖縄本島には、千二百隻の艦船に分乗する十七万人のアメリカ軍が来攻した。わが軍と陸海空において、凄惨な血戦が繰りひろげられた。先の本から引用しよう。
「一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。とくに沖縄戦がそうだった。
(アメリカ軍兵士の)クリス・ドナーは、こう記録している。
地面に十五歳か、十六歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、何回にもわたって強姦されていた。
日本兵の仕業であるはずがなかった。
しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。
その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、「あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」と、叫んだ。
兵がいっせいに射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった。
アメリカ兵は日本人を人間だと思わなかった。
故国への土産(スブニール)として、日本人の頭蓋骨を蒐集したが、ヨーロッパ戦線においてドイツ兵については、頭蓋骨をそのように扱うことはなかった。日本人の頭蓋骨を飾り物として、珍重したのだった。
------------------------------------
もうひとつ紹介します。
「翼よ、あれがパリの灯だ!」
という映画で、世界的に有名になったチャールズ・リンドバーグ氏の手記です。
------------------------------------------------------
出典、『孤高の鷲 リンドバーグ第二次大戦参戦記 』上下 学研M文庫
著者/訳者名 チャールズ・リンドバーグ/〔著〕 新庄哲夫/訳
-------------------------------------------------------
1944年6月21日(水)
偵察隊の一人が日本兵”捕虜”に煙草と火を与えた。
煙草を吸い始めた途端に 日本兵”捕虜”の頭部に腕が巻きつき喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで 切り裂かれた。
1944年6月26日(月)
ニューギニア戦線で2000人の日本人捕虜を飛行場に連れて行き 機関銃を乱射して殺害した。
1944年7月24日(月)
そこには1人の日本軍将校と十人~12人の日本兵の死体が、切り刻まれた人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま 横たわっていた。
頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。
1944年8月6日(日)
「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に 送らねばならなくなった時のことを知っているかね? 」
あるパイロットなど 僕にこう言ったものだ・・・。
「捕虜を機上から山中に突き落とし ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」(或る読者より)
日本兵の死体に金歯があると、靴で踏み付けたり、棒でつついてその歯を取り出して集めて、小さい袋にため込んでいる兵士が何人もいる。
砲弾で出来た穴の中に日本兵の死体を投げ込む。
その上をゴミ捨て場にする例もある。
死体処理はブルドーザーでなされ、墓標がたてられることは、けっしてない。
ちょうどそのころ、日本軍は泰緬鉄道の捕虜犠牲者のために、四メートルの大理石の慰霊碑を立てていたことを考え合わせてみよ。
わが軍の兵士たちは日本兵の捕虜や投降しようとしている者を射殺することを何とも思っていない。
彼らは日本人を動物以下のものとして取り扱い、それらの行為がほとんどみんなから大目に見られている。
ジャップの病院を占領した時には、病院に生存者をひとりも残さなかった。
捕虜として投降してきた者は即座に射殺、そのため日本人は、投降もままならず、ジャングルの中で飢えに苦しみ抜いて死んでいった。
日本人の死体は切り刻まれた。
金歯を抜き取る者、おもしろ半分に耳や鼻を切り取り、乾燥させて本国に持ち帰る者、大腿骨を持ち帰り、それでペンホルダーやペーパーナイフを作る者さえいた。
ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人に対して行ったことを、われわれアメリカ人は太平洋で日本人に対して行っている。
負傷兵であろうと手を上げようと、みな射殺してしまう。それが残虐な日本兵にたいする報復だとし、自らの残虐行為を正当化した。
-------------------------------------
一昨日から大東亜戦争について書いていますが、グアムにしてもサイパンにしても、パラオやインドネシア、ラバウル、マレーシアにしても、フィリピンにしても、樺太、満州、いずれの地でも、日本兵が劣勢になったときに、住民や民間人の婦女を暴行し、殺害し、逃げちゃったなんて記録はまったくありません。
なぜかといえば、日本兵には、冒頭述べた牛島中将のいう「悠久の大義」があった。
ではその「大義」とは何かといえば、「人種差別撤廃」です。
黄色人種は“黄色い猿”ではない。我々も立派な人間なんだ。だからこそ、死の瞬間のそのときまで、立派に戦って死のう。そういう誇りと矜持が、当時の日本兵全員の胸に深く刻まれていた。
だから帝国軍人は、戦局が不利になったからといって、民間人を殺害したり、強姦したり、財産を奪ったりという行為は一切しなかった。
これだけサヨクが沖縄戦の不条理を訴えながら、現在に至るまで、日本の軍人が沖縄戦で戦局不利になるやいなや、民間人を殺害し、強姦致傷したなどというケースを、ただの1件も見出していない。
すべての戦地、みな同様です。
(シナでは、国民党や共産党兵士が、戦地から逃げ出すとき、あるいは占領したとき、強姦、暴行、殺害、窃盗、ありとあらゆる暴行を働いていますよね?)
紳士的と伝えられる米軍にても、実態は、リンドバーグの手記にある通りです。
このことは戦場だから・・・などという“戦場の狂気”論で片付けれる問題ではない。
イエローは、人間とすら認識されなかった人種差別に対し、日本は、誇りを持って敢然と立ち向かった。
米兵にとっては、戦いの場においてもなお、日本兵は“猿”だった、ということなのではないか。。。。
だからといって、この項で、米軍の批判をしようという意図はまったくありません。
なぜなら、銃弾の飛び交う戦場で、明日をもしれない戦いをしていれば、まして男ばかりの集団に長くいれば、現地の民間人であれ敵国の看護婦であれ、女とみれば見境なく犯し、殺しするという事態が起こるのが、むしろ普通だとおもうからです。
米軍の行為等は、決して褒めた話ではないけれど、戦場ではある意味、それが“あたりまえ”のことといえるのかもしれない。
だからこそ、日本の帝国軍人の、戦闘末期においてすら一切の暴行を働かず、略奪をせず、どんなに自分たちが飢えに苦しんでも、民間人の畑を襲い、略奪し、殺害する等の行為をはたらかず、戦闘末期の玉砕間近の状況におかれてすら、「悠久の大儀」を唱え切った姿というのは、世界史上、刮目してみなければならない、誉れある姿といえるのではないか。
そういう祖父を持った日本人というのは、もっと誇りをもって良いのではないか、と思うのです。
ビルマのインパール作戦では、 日本の将兵は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながら、泥濘に覆われた山道を歩いて退却した。
退却路には日本兵の死体が累々と横たわり、その有様は後年「白骨街道」と呼ばれている。ここでは日本は、参加兵力約85,600名のうち30,000名を戦死・戦病死で失い、20,000名の戦病者を後送している。
この撤退路にも、ビルマの町や村があった。(お暇な方は地図で見てください)
そこにはビルマ人が住み、食料もあった。
それでも日本の将兵は誰一人、糧食を奪わず、盗まず、暴行も働いていない。
その誇りや矜持はどこからきたのか。
そう考えれば、これはもう、ひとりひとりの日本の将兵の胸中に、
「自分たちは大義のために戦っているのだ」
という明確な思念があったということが、誰の目にも明らかなのではないか。
ついでに言うと、南京城攻防戦では、日本が当時の国民党の本拠地(首都)である南京城を取り囲んだとき、シナ側の兵士たちは、後ろから国民党の兵士に銃を突き付けられ、仕方なく抵抗戦を戦っていた。自分たちが、なんのために誰と戦っているかすら知らされていなかった。
そして、市民兵に後ろから銃を突き付けていた国民党の軍司令官は、戦っている民兵と20万の市民を尻目にさっさと逃げてしまった。
最後の一兵にいたるまで市民を守り抜いて戦った日本の将兵と、市民に銃を突きつけ、戦いが始まると略奪の限りを尽くしてさっさと逃げてしまったシナ兵。。。。
ボクはね、戦争を礼賛する気はまったくありません。
あってはならないことだと思っている。
そしてその思いは、当時の日本の将兵だってまったく同じだったと思うのです。
でも、戦争は起こってしまった。
その起った現実に対し、私たちは、それがなぜ起こったのかという理由と、なぜあそこまで必死になって日本は戦い抜いたのかという訳については、しっかりと冷静に検証してみる必要があると思うのです。
なぜなら、あのとき戦ったのは、私たちひとりひとりと血の繋がった同じ日本人なのですから。
←クリックを
