よく「歴史にIFは禁物」といいます。
もし、マリーアントワネットが生きていたら、
もし、信長が生きていたら、
もし、坂本竜馬が生きていたら。
もし、太平洋戦争に日本が勝っていたら。
もし、原爆が投下されなかったら・・・等々
どうして、IFが禁物なんでしょう??
IFが禁物で、田母神論文のような歴史認識については、歴史家が判定するものですか??
日本が侵略国家であったか、なかったか、それは後世の歴史家が決めること??
ほんとうに、そうなのですか?
歴史というものは、いろいろな人が生きて、それぞれの人がそれぞれの立場で精一杯真実を目指した結果です。
勝った戦もあれば、負けた戦もある。
だけど、勝った方も、負けた方も、どちらも正義を信じて戦った。
勝った方が正しくて、負けた方が、間違ってる?
そんなの、単なる結果論でしょう。
負けたのは事実だ。だけど、負けないために一生懸命戦った人がいて、負けたといっても、それぞれの人がそれぞれの立場や役割の中で、必死に正義を実現しようとした。
それが歴史というものじゃないかと思うんです。
それを後世の「歴史家」が、Aが正しくてBが間違っていると裁定する?
そういうのを、日本語で「おこがましい」というんです。
いったい、いつから歴史家が判事になったのか?
昨日、コメントのお返事にボクは、こう書きました。
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歴史というものは、様々なものを引きづりながら動いていく。
だからこそ、何が正しいのか、どれが正しいかといった正邪で歴史を見ることに、ボクはおおいに疑問をもっています。
みんながみんな正義を信じて戦い、歴史を作っていく。
勝てば官軍。負ければ賊というけれど、じつはそうじゃない。
どちらも正義の使徒なのです。
だからこそ、歴史は、後年になって歴史家が正邪を判定するものではなく、人々がそうした過去の事実から、未来のために何かを学ぶためのもの、とボクは思うのです。
サヨク系の方は、戦前の日本は悪だった。日本は侵略国だったと決めつけたいようです。
そういう正邪で歴史を測ろうとすること自体が、大きな間違いです。
サヨク系の方は、歴史にIFは禁物だといいます。
それこそが、歴史に対する横暴であり、冒涜です。
もしミッドウイで勝っていたら。もし、日本が日本が先に開発したレーダーシステムをもっと早くに導入していたらなど、歴史を知り、そこにIFを考えることで、私たちは情報の正しさや、将官の心得、戦うことの厳しさなどを学ぶことができる。
そしてそうした、さまざまな人の営みを学び、未来の子供たちの明るい社会のために、歴史にあった事実を「活かしていく」ことこそが、次代を託された私たちに、いちばん必要なことだし、そうすることが、歴史上、消えて行った多くの人たちにたいする最大の敬意であるのだ・・・ボクはそう思うのです。
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「歴史にIFは禁物」・・・けだし、名言ですね。これほどの妄言はない。
はじめに誰が言い出したかはわかりませんが、この言葉ほど、戦後の日本人を惑わし、日本人に歴史を謙虚に学ぶ心を失わせた虚言はない。史上最悪、最低至極のセリフです。
謙虚さのかけらもない。傲慢です。不遜です。
歴史というのは、年号をまる暗記すれば足りるものではありません。
人々が、必死で良い世の中を作ろうと努力した。そして多くの過ちや失敗もした。
多くの人が命をかけ、そして死んでいった。
そうした様々な人の世の営みを、後世のボクたちが、謙虚に学ぶ。そして過去を未来に活かしていく。
そのことが、そのことこそが、先人たちへの最大の敬意であり、また、散って行った多くの命が、心から願ってやまないことなのではないかと思うのです。
だからこそ、歴史の事実を知り、もし、このときこうなっていたら?と考えてみる。
考えることで、成功のチャンスや、失敗しないための方法を見出す。
「歴史にIFは禁物」というのは、そうした知的な探究心や、事実を知ろうとする努力を、一定の「正邪の定義」のなかに押し込めようとする、ただのプロパガンタでしかない。
きわめて意図的かつ悪質な、世間をたぶらかす虚言、それが「歴史にIFは禁物」である。
そう思います。

日本人として知っておきたい誇りある国家観・歴史観 その参 1/3


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