今日は15日なので、1日過ぎてしまいましたが・・・・
元禄15年12月14日といえば、言わずと知れた赤穂浪士討ち入りの日です。
討ち入りが深夜だったので、まぁ、今日(15日)の記事にすることをお許しください^^;
ちなみに、12月14日は旧暦なので、太陽暦だと1703年1月30日になるそうです。・・・言い訳ですヾ(;´▽`A``アセアセ
赤穂の四十七士が、旧主浅野内匠頭長矩の仇である高家吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、仇討ちをしたという、この元禄赤穂事件。後に歌舞伎や講談で「義士」として称えられたこの四十七士は、義士祭が行われる赤穂市では「赤穂義士」と呼ばれるのだそうです。戦前は全国的にも「赤穂義士」の名称が一般的だった。
ところが、大佛次郎の小説「赤穂浪士」がNHKの大河ドラマで放映され、以降「赤穂浪士」という名称の方が認知されるようになったといいます。
討ち入りをした浪士は、全員播磨国赤穂郡出身のように思われがちですが、実際には、赤穂出身者は大石内蔵助を含めて半数程度。多いのは真壁や笠間の出身者です。なんと茨城県出身!
これは、浅野氏の家臣団の中心が、赤穂に転封される前、初立藩(大名になった)したのが常陸国真壁(茨城県真壁郡・筑波郡・新治郡一帯)と、笠間藩(茨城県笠間市一帯)だったためです。
吉田忠左衛門・小野寺十内・堀部弥兵衛など高齢者の浪士はここの生まれが多い。そのため同地には現在も浪士の出身家系の旧家が残り、浪士の遺品も多く伝わっているといいます。
赤穂浪士が葬られた泉岳寺、吉良邸跡である両国・松坂公園、並びに兵庫県赤穂市では、今年も12月14日に義士祭が催されました。
同時に、両国・松坂公園では、名君であったとされる吉良上野介を偲んで吉良祭も行われています。
さて、この赤穂浪士ですが、主君の仇を報ずるために討ち入りを行ったから「義士」として語られますが、元禄という太平の世の中で、理由はともあれ武装して他人の館を急襲し、その館にいる全員を殺戮したとみれば、四十七士は、暴行・殺人の凶徒となります。まして吉良氏は、名君の誉れ高い人物であった。播磨赤穂藩の第3代藩主浅野内匠頭も、観方を変えれば、抜刀を禁じられている殿中で刃傷沙汰を行った狂人です。
ごめんなさい。決して赤穂浪士の悪口をいうつもりはありません。
ただ、歴史というものは、観方ひとつで、義士が暴徒に、名君が狂人になる、ということを言いたいのです。
歴史を詳しく精査し、研究することはとても大切なことだと思います。
しかし、そこに描かれるストーリーは、右から見ることも左から見ることもできる。赤穂浪士の討ち入りは、正義だったのか、邪義だったか。口角泡を飛ばして感情的になり、むきになって議論したとしても、そんなことになんの生産性もない。そう思うのです。
司馬遼太郎氏が、何かに書いていましたが、「人はおよそ程度の低いことがらにのみ、むきになる。はなしが高度なものや理論的なものには、冷静になる。むきになりようがないのである」と述べていました。(そんなふうな趣旨だったと思います。読んだことだけ覚えていて、文章の詳細までは覚えてません)
田母神論文・・・田母神史観とでもいいましょうか。あの戦争は、侵略戦争だったのか、東亜の解放戦線だったのか。戦時中、日本の行ったことは正しかったのか、間違っていたのか・・・等々、はっきりいって、そのような議論にはなんの値打もない。そう思うのです。
日本が半島や中国本土に進駐したのは事実ですし、そこで戦いがあったことも事実です。それを侵略とみるか欧米列強からの解放とみるか。それは、その事実からなにを学ぶかにかかっているのだと思います。
赤穂浪士から、義士としての心構えや忠義の大切さを学ぶか、太平の維持を図るために心を鬼にして切腹を申し渡した治世者の心構えを学ぶか、あるいは、名君と謳われながら、仕事熱心なあまり恨みを買って討伐された吉良上野介からあるべき名君の姿を学ぶか。
同様に、太平洋戦争から貧しくとも欧米列強と闘いぬき、東亜の国々のその後の独立の礎を築いた日本という国の雄々しさを学ぶか、都市を焼土と化したおろかしさを学ぶか、それは、それぞれ後世の人が、その歴史から「何を学ぶか」にすべてかかっている。そう思うのです。
歴史は、正邪を議論するものではなく、事実を精査し、未来のために学ぶもの。そう思っています。
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